Comments by Dr Marks

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米国製クローハンマー(釘抜き付き金槌、claw hammer)


私はしばしば米国の昔の職人のいい仕事をいろいろなところで紹介している。例えば、我が家のほぼ毎日弾いているピアノも100年以上前の米国製だ。しかし、ブログで紹介することは多分なかったように思う。更新しないブログは忘れられるのと生存確認のために埋め草記事で申し訳ないがちょっと紹介。写真だけでもお楽しみあれ。

今回、Made in "USA." Claw hammer with genuine leather grip. Very beautiful and strong!!!といって別所で数年前に紹介したもの。釘抜き(clawすなわち鳥獣の鉤爪の形の釘抜き)が付いた金槌で取っ手には本革が巻かれている。多分100年くらい前の物だが今でも手に馴染んで使いやすく、金属部分は強固だ。

他の米国製製品もそうだが、初期は欧州から移民した職人が文字通りの手に職で移住後の「たつき(手付き)の道」としたのだろう。そうそう、毎日座って食事をしている台所の塗装の剥げたテーブルも、こないだ下を覗いたら100年前のフィラデルフィアで作られていた。あそこはドイツ人やユダヤ人の職人が多かった。

 

カリフォルニアのカケス(California scrub jay)、いわゆるブルー・ジェイ

 専門家によればカリフォルニアで見られるカケスはブルー・ジェイとよく言われるが違うそうだ。正しくはスクラーブ・ジェイ。この場合のスクラーブとは「擦る」という意味ではなく「低木の雑木林」のこと。

 写真は2020年10月の午前10時頃、ロサンゼルスの我が家のドライヴ・ウェイできれいな青空と雲を何気なく写そうと手持ちのiPhoneを向けて撮ったところ、偶然にもブルー・ジェイが羽をいっぱいに広げて飛ぶ姿が写っていた。オリジナルと鳥を拡大した二つの画像を貼っておく。

 ウィキペディアの「California scrub jay」の項のみならず、意外と飛翔する姿は捉えられていない。その意味では、遅ればせながらここに記録しておく価値はあるだろう。

 参照:https://en.wikipedia.org/wiki/California_scrub_jay

 

オリジナル画像

拡大画像

 

会津のみならず全国の長男(戸主)とその他の息子・娘の違いについて   ある書簡から

<時代的背景>

 

 江戸時代も安定期になると、とくに農村では家督の相続が宅地・耕作地・山林という土地の相続と密接に結びついてくる。土地は限られているから一子相続(多くは長子相続)が基本で余裕や開墾地があれば分家が可能だった。

 

 昔は多産であっても無事成人できるのは30%程度なので相続する男子が残らないこともしばしばで、その際は娘に婿を取って当主(戸主)とした。子なしの夫婦が親類の子を養子に迎えることもあったから需要と供給は意外とバランスが取れ、供給過剰な二男、三男が溢れるなどと心配するほどではなかった。(死亡率の減った幕末、明治以降は、二男、三男は都市部へ。)

 

<墓地の形態>

 

 江戸中期の初め頃から庶民も墓を建てるようになった。とくに土地に余裕のある農村部では自作農以上地主であれば広い墓地を確保して、その当時の当主が祖先として奥に墓石を建て、左右に次代の墓がコの字型に並んでいった。会津のXX家の墓も代々の墓を先代が建てる前はコの字型に墓石がずらっと並び、それぞれ一つの墓石には夫婦の名を書き揃えていた。全国どこでも一家の墓地に墓石が並び切らなくなると代々の墓一基に整理したようだ。また、土葬から火葬に移行したのもこの頃である。(昔の火葬はむしろ身分の高い者しかしなかった。)

 

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小さくてごめん。コの字に墓石が先祖の墓を奥に並んでいるのがわかるだろうか。

 つまり、代々の墓が一家の墓となって小さな骨壺を入れられるようになると、誰でも一家の墓に納めてもよくなったが、それまでは当主夫妻しか一家のコの字型の墓(本墓地)には入れなかったのである。現在の都市部で、代々の墓の骨壺の収納余裕があるにも拘わらず、当主一家の者しか入れないという風習が東京にさえまだある。長男は墓を引き継ぐが、二男、三男は新たに墓地を求めなければならない。

 

 それでは、当主夫妻でない者は死んだらどうなるのか。共同の遺体塚に葬るか、幸いにして一家に余裕があって別墓地を持っていればそこに葬る。XX家にも最近まで別墓地があった。OO寺の南側一段低い墓地である。葬られても本墓地のような立派な墓石が建てられることは稀であり簡単な墓標になることが多い。夭逝した子供や成人しても未婚の者の墓となった。私の兄、ゼロ歳で死んだ△△の墓は、あの墓地にあり、小さな墓標が置かれているだけだった。

 

<家紋:余談として>

 

 家紋は、あくまでも当主が引き継ぐもの。二男、三男のものではない。二男、三男が分家するなり、自力で一家を成した場合、本家当主が許可しない限り代々の家紋は使えないが、逆に新しい紋所を選んだり創出してもよい。XX家は基本的には「丸に木瓜」だが、私は子供の頃「菱に木瓜(角に木瓜)」があったことを記憶している。

 

 まるで違うデザインを選ぶというよりは似たものを選ぶか変化させた。「豊臣の桐紋」も「松平(徳川)の葵紋」も微妙に違って各種ある。私は昔、自分の家紋を会津のXX家の「丸に木瓜」に似せて、織田信長の「織田木瓜」にしようと思ったことがあるが、とうとう今まで紋付裃はもちろん羽織袴さえ誂えずにきた。これからも作ることはないだろう(笑)。

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織田木瓜

 

笈の小文または老いの子踏み

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2018

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2020


 ゴーリー婆さんが我が家に来たのは、ある分野で知る人ぞ知る人らしいイラン人の奥さんが隣家に引っ越して来てからすぐだった。ゴーリー婆さんは、この奥さんの独身時代からの飼い猫である。当初は我が家の前庭や玄関口のポーチに座っている程度だったが、そのうちドライヴウェーを回って裏庭に来るようになった。

 三年前のクリスマスの時期に隣家が休暇で出かけた際に、連れて行けない事情があったのか、置いていかれた。婆さんは、我が家の裏の勝手口に来て、その軒先で眠るようになった。ほぼ一週間、その間毎晩寝ていた。冬はいくら南カリフォルニアとはいいながら寒いので、家に招き入れようとしたが頑として入らない。抱いて入れたら、怒って暴れる。已む無く外で眠らした。

 ゴーリーは年老いた猫で、名前はペルシア語で紅のバラ色を意味するらしい。もちろん一家が留守の間、隣家に世話係が毎日やって来て餌やトイレのことを済まして帰っているのはわかっていた。ところが夜になると、寂しいからか必ず我が家の少しは明るくなっている軒下に来て眠る。年末の寒風は身に応えるはずだから、家人が段ボールで防風壁と座布団を用意してあげたら、そこに入って眠るようになった。

 隣家が休暇を終えて帰って来ると彼女が泊まりに来ることはなくなった。我々としてもほっと安堵したものだ。なにしろ毎晩寒風の中で猫が寝ているかと思うと、外敵が来ることもあり気が気ではなく、哀れに思えて仕方なかったのだから。アングロサクソン系のハズバンドは、毎日来ていたキャット・シッターから我が家での婆さんの動向を聞いたのか、世話になったということで菓子折りを持って挨拶に来た。

 聞けば、ゴーリー婆さんは、そのとき既に十六歳の老猫であった。婆さんは、尻尾のない小柄なマンクス種であるが、気の毒なのは三口だ。猫にも三口はある。三口だと餌が食べづらく成長にも影響があったのだろうか。実に小柄で、抱けば我が家のデブ猫と違ってすこぶる軽い。毛はとても柔らかく密集している。これが寒さに耐えさせたのかもしれない。

 それからのゴーリー婆さんは、夜間泊まりに来る代わりに日中我が家の裏庭で暮らすようになった。例の勝手口の軒先で寝ていることもあれば草むらや花壇の中で遊んでいる。さすがに老猫、木に登って遊ぶようなことはない。なにしろ、自分の家、すなわち隣家の玄関の階段を登るのも辛くときどき失敗しているくらいだ。走ることもほとんどない。我が家の裏庭でじっと遠くを見つめながら座っている。

 ところが近頃、彼女の行動が変わってきた。昨年までは終日明るいうちは我が家の裏庭で暮らし食事も我が家が提供していたのだが、今は食事のときだけ隣家から訪ねて来て、食べるとすぐに帰って行く。もちろん夜は自宅である隣家に帰る。

 しかし、最近、更に行動が変わってきたことに気づいた。彼女が自宅と我が家を往き来する頻度が増えた。日に何度も行ったり来たりするのだ。初めは年寄り猫には運動がいいはずと喜んでいたが、やっと先日、新しい事実に驚く。彼女は再び夜間、しかも深夜に軒下に現われ、寝たり起きたりしている。

 つまり、一日中、頻繁に昼も夜も行ったり来たり。自分の本当の家がわからなくなったのだろうか、あるいは自分のテリトリー、つまり自宅の他に我が家の裏庭もテリトリーなので、それが気になって仕方がないという神経症的行動なのだろうか。はたまた、老化現象?

 

 獣医さんか識者の方々、教えてほしい。彼女は現在十九歳、立派な高齢猫だ。

 

大事なのは、問題と共に生きることだ    <意味の意味>

はてな」が90日ごとの新しいエントリーを要求するので、以下はメモのようなものだが「受け売り」であるから、本記事に関してだけは引用・転載する方は、申し訳ないが、私にご一報ください。

 タイトルの「大事なのは、問題と共に生きることだ」はリルケの書簡からの和訳である。安易に、また早急に、あるいは稚拙に答を急ぐより「問題と共に生きてみろ」という趣旨だ。「意味の意味」とは、まさに以下のメモ書き。

 

 「まず最初の意味は、「対事象・基盤的知覚判断(founding sense-event)」と名づけているもので、三つのセットとなる事象(event)の要素すなわち、1)先行する社会的歴史的に措定された概念、2)書き手の意図や信念、3)語義そのもの、とを相互に関連づけることによって、結果としてその真偽はどうであれ、取り敢えず理解され記述されたあらゆる聖書本文の意味のことである。これら事象の三要素の土台に対して(すなわち「対事象」)、四番目の要素となるのが「知覚判断(sense)」である。第一章で詳述するが、言語というものは常に、土台となる三要素を通して理解される以上のもの、あるいはそれに加えた何ものかを携えている。この「超えた何ものか」を「知覚判断」と名づける。

 テクストに関わる二つ目は、現に今ここからという視点を意識した「対事象・現今的知覚判断(present sense-event)」による聖書本文の意味であり、これがわれわれの現前の世界で「対事象・基盤的知覚判断」に具体的な言葉の意味づけと今現在の評価を与えることになる。更に、対事象・現今的知覚判断は、「テクスト受容の複合機構(text-reception complex)」から生じるが、これはテクストの「知覚判断」を露わにする過程で、「価値判断(value)」に変容された関係の中に立ち位置を限定された解釈者にとっては、個々の経験に先立つ(a priori、先験的な)機能となる複合的な仕組みである。

 対事象・現今的知覚判断は、解釈者が現に属する世界において、対事象・基盤的知覚判断の「再現(replay)」、すなわち言い換えれば、起点への「巻き戻し(counter-actualization / contre-effectuation)」と常に関係することになる。解釈者自身の関心に繋がるのであり、解釈者自身が、他者と現前の世界との双方に、意識的に関わろうとする企てである。あるいは、対事象・現今的知覚判断は、確かに実存的な側面を持つが、同時にその実存的側面に反して、決して人間中心でもないし、人間の領域を上手く超越して恣意的な「意味作り」にまで拡張できるものではないことを納得させる、とも言える。極めて現実的な知覚判断からすれば、意味は、われわれの実存を超越した、言わば避けられない運命なのである。」