Comments by Dr Marks

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Confined 檻の内と外、いや内からだけだが

 とくに読むための記事はありませんが更新できる(生きている)という意味で窓からの写真を掲載します。住所が特定される情報もある・・かな。3年半ぶりのアップです。窓の向こうの家にはハロウィーンの飾りが見えますね。暖炉のレンガの上には大きなクモが。

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『ヨハネの言行録』(あるいは『ヨハネ行伝』)概説

 はじめに
 たぶん日本語では「ヨハネの言行録」あるいは「ヨハネ行伝」との定訳で知られている新約聖書外典の一部を私も訳したので
『ヨハネの言行録』(あるいは『ヨハネ行伝』)62章−86章「ドルシアーナの物語」(日本語訳) - Comments by Dr Marks
簡単に紹介しておく。東京大学の教授であった大貫隆が若いときに訳した書名は「ヨハネ行伝」であり、これが従来は唯一の日本語訳であろう。このブログ記事を利用して日本語ウィキペディアの項目としたい方はご自由にどうぞ。その際、引用元としてこのブログを引いていただければ十分であり、私からの許可は不要。
 新約聖書外典
 新約聖書外典というのは、新約聖書(New Testament)正典(Canon)27書に加えられなかったすべての聖書様古代文書のことである。つまり、正典に対する外典であり、Canonに対するNon-canonical 文書である。このように、近年は外典を非正典(Non-canonical writings)と称することも多くなったが伝統的にはギリシア語で「重要でない、あいまいな、隠れた」を意味するApocryphaが使われる。本書は、そのような外典の一つである。
 ただし、外典を正典ではないが歴史的に一部の現存教会に<受け入れられた>文書と定義する立場からは、本書はApocryphaではなくPseudepigrapha(偽典、偽書)に分類されることを付記する。もちろん、偽書を旧約文書に限る立場ならば、本書は外典で構わない。
 通名としての書名
 本書の伝統的な通名としての書名はラテン語Acta Ioannisであり、ラテン語写本の断片も現存するが、原文はギリシア語である。現在は、世界最大の聖書学会SBL(Society of Biblical Literature)での公式名が英語でActs of Johnであり、略称はActs John(真ん中のofを取る)とするとスタイル・マニュアルで定められている。なお、外典であるからどちらもイタリックで表記する。
 著者と成立年代
 著者は、古代には新約聖書使徒言行録(使徒行伝)の6章5節に登場する七人の執事の一人プロコロ(プロコロス)と信じられていたこともあるが、現在は、確証はないものの、9世紀のコンスタンティノポリス大主教フォティオス(Photius, Photios)の証言によるとルチウス・ハリヌス〔カリヌス〕(Leucius Charinus)の作である。この人物はヨハネの弟子の一人とされており、フォティオスによれば「ペトロ」「パウロ」「アンデレ」「トマス」の各言行録の作者でもある。多くの学者が本書は二世紀後半の成立と見ている。
 印刷本文(写本から読み取って印刷した原文)
 本書の印刷されたギリシア語本文は、ドイツ生まれでドイツで教育を受けたがスイスやフランスで教えたマクシミリアン・ボネ(Maximilien Bonnetラテン語形Maximilianus Bonnet)編集のActa Apostolorum Apocrypha II-1がある。1898年初版だが1959年に最新版が出ている。私の底本はこの1959年版である。多くの現代語訳は、このボネのギリシア語本文による。先に紹介した大貫隆の「ヨハネ行伝」も同様と思うが未見なので訪日した際に図書館で確認しておく。
 現代語訳
 Wilhelm Schneemelcher (Hrg.): Neutestamentliche Apokryphen in deutscher Übersetzung, Bd II Apostolisches, Apokalypsen und Verwandtes, 6. Aufl., Tübingen: J.C.B. Mohr (Paul Siebeck), 1997.
 上記のドイツ語訳はもっとも充実した現代語訳であり、その1989年版の英語訳が下記の書籍だが印刷の不備が目に付く。
 R. McL. Wilson (ed.) New Testament Apocrypha, II Writings relating to the Apostles Apcalypses and Related Subjects, Rev. ed., Cambridge: James Clarke, 1992 (Paperback edition: Westminster John Knox Press, 2003)
 他に、英訳として優れているのは下記のもので著作権が消滅しているのでネット上で見つけることが可能だろう。
 M. R. James (trans.) The Apocryphal New Testament, Oxford: Clarendon Press, 1924.
 現代語訳の範囲
 18章から115章までである。1章から17章までは上記のボネのギリシア語版では断片と2種類の写本が印刷されている。従って、ギリシア語原文では断片部分を除けば読める。しかも、一部は2種類の写本を並行して印刷している。しかし、17章まではいずれも本来のものとは判断されていないので、現代語訳では18章から訳されている。もっとも18章以降も不完全な箇所は存在する。
 つまり1章から17章は後代の偽物。更に、87章から105章または94章から102章は後代の挿入の可能性が高い。従って、本来写本の順序は、18章−86章と106章−115章。また、87章−105章が挿入だとしても本来は36章と37章の間に来るという見方もある。
 本書の意義
 94章から102章および109章の内容から仮現説およびグノーシス主義の傾向がみられる。従って、787年の第2二ケア公会議で異端書と判断され焚書の対象となった。しかし、読みごたえがあったことと、異端的傾向が限定的なので複数の写本が現存している。また、本書は、その他の外典言行録(行伝)の嚆矢と目されていて、古代のエペソ周辺のキリスト教事情を反映する文書としての価値がある。
 おわりに
 内容全般に関する要約ないし概説が求められるかもしれないが、上記に示した大貫隆の日本語訳が刊行されていて、またネット上ではM. R. Jamesの英訳も、また必要があればボネのギリシア語本文も公開されているのであるから、今回はここまでの紹介でひとまず終了としたい。

『ヨハネの言行録』(あるいは『ヨハネ行伝』)について(予告)

これは新約聖書外典の一つですが、先日紹介したドルシアーナ物語の部分の日本語訳のギリシア語底本や、この書物の概要についてはいずれ記事にするつもりですがしばらくお待ちください。どうやら日本語のウィキペディアにも項目が立っていないので紹介する価値はあるかと思います。現代語訳もいくつか紹介するつもりです。英語のウィキペディアを参照なさる方はActs of Johnとしてください。ドイツ語、フランス語、イタリア語等でも項目はありますが、日本語ではないということです。
なお、日本語訳は大貫隆の訳が出版書としては唯一のようです。各種の版があるようですが残念ながら未見なので日本訪問の際にでも読んでみたいと思っていますが入手出来たらそれに越したことはありません。もし、お持ちの方がいらっしゃったら、私の訳と比べてご覧いただけるでしょう。大貫氏の訳は『ヨハネ行伝』となっていますから、その書名で検索してみてください。

『ヨハネの言行録』(あるいは『ヨハネ行伝』)62章−86章「ドルシアーナの物語」(日本語訳)

本書は新約聖書外典です。本書の概説や底本等については後日。ともかく楽しんでお読みください。古代の本ですから、現代的には冗長な部分もあります。飛ばして読んでいただいて結構です。

62 この後、我々はエペソにやって来た。すると、今やっとヨハネが到着したと知ったその地の信仰の友らは、ヨハネの逗留しているアンドロニコスの家に急いで向かい、ヨハネの脚を抱え、彼の両手を自分たちの顏に押し当ててキスをした。また、そうできなかった者は、自分たちの腕を伸ばして、ヨハネの衣服になんとかして触り、その触った自分の手にキスをした。

63 さて、信者らの間に大いなる慈しみの思いとこの上ない喜びが満ちているときに、悪魔の使いのような男が、アンドロニコスの妻であることを承知の上で、ドルシアーナに横恋慕した。それで幾人かは、その男に言った。
 「彼女をものにするなど不可能ですよ。そもそも清純を保つために夫とさえ共に寝ることは長い間なかったのですから。ひょっとしたらあなただけが、かつては神を恐れなかったのに今は恐れているアンドロニコスが、『元々あなたを妻としていた私か、〔妻となった〕あなたのどちらかが〔清純を汚したので〕死ななければならない』と言って、彼女を墓に閉じ込めたことを知らないのですね。
 彼女は自分が死ぬことを選び、彼の莫大な資産を共有しようとはしなかったのです。そういう忌まわしいことをするよりも殺されることを選びました。彼女は、主なる神と夫の二者に交わることをよしとせず、むしろ夫にも彼女と同じ思いになるように説得していたというのに、彼女の愛人になろうなどと願っているあなたを受け入れるはずはないでしょう。
 そんな心穏やかならぬ狂気から離れなさい。成就しようのないことは諦めなさい。ご自分の企みを実現しようと、あなたはなおも欲情を燃え立たせるつもりなのですか。」

64 しかし、これらの言葉をもってしても、その男のごく親しい友人でさえ説得することはできず、あろうことか、男は厚かましくも伝言を彼女に送った。しかし結局は、彼は人々による非難を恐れて、彼女への試みは放棄したので、絶望して人生を過ごすことになった。
 〔伝言のあった〕二日の後、ドルシアーナは心の重荷から熱を出して寝たきりになって言った。
 「二度と故郷の町には戻りません。信仰を教えられていない男のつまずきの石にはなりたくないからです。神の言葉に満ちた男であれば、あのような色欲の極みに至ることもなかったでしょうに。それゆえ、主よ、無知の魂の傷の責任の一端は私にありますから、どうかこの世の縄目から解き放って、いますぐ御許にお召しください。」
 かくして、事情が完全には飲み込めないでいたヨハネがそこに立ち会ったものの、ドルシアーナは、喜ばしく感じるものは何もなくなり、その男に対する精神的な傷ゆえの落胆でこの世を去った。

65 しかし、アンドロニコスは、一人密かに心の中で悲しむばかりか、人前でも涙を流すので、ヨハネは再々彼の側に行って、「ドルシアーナは、このよこしまな世から出て行き、もっと良い希望の地に旅立ったのです。」と慰めた。すると、アンドロニコスは「はい、そのことは信じていますよ、ヨハネ先生。神への信頼を揺るがすことはありません。とりわけ、彼女がこの世から清純なままで去ったことは確信しています。」と応えた。

66 〔埋葬のために〕彼女が運び出される際に、ヨハネはアンドロニコスの体を支えた。この頃になってようやく〔あの男との〕事情を詳しく知ったヨハネは、アンドロニコス以上に嘆き悲しんだ。しかし、彼は悪魔の陰謀に気づいて、心落ち着け、しばらくの間静かに座っていた。それから、信仰の友らも故人への弔辞を聞くために心備えしたので、彼は語りだした。

67 「航海において船長は、船員や船そのものと一緒に、平穏で波風に守られた港に着いたとき、はじめて彼は安全だと宣言するでしょう。また、大地に種を撒き、育て、守るために長い間労した農場主は、元の種を幾倍にも増やして収穫し、倉に積み重ねてはじめて安心するのです。競技場で競争に参加する者は、賞を持ち帰ってはじめて勝ったと言えます。拳闘の試合に出た者は、王冠を得てはじめて自慢します。だから、そのような競技や技量は皆、終りまで失敗することなく、約束した通りであることを証明しなければならないのです。

68 私が同じように考えているのは、我々がそれぞれ守っている信仰の場合です。それが本物かどうかは、人生の終わりの時まで変わらず持続するかどうかで決定されるのです。なぜなら、幾多の妨げが襲いかかり、人間の思いに迷いを生じさせるからです。漠然とした不安、子供のこと、親のこと、世間の評判、貧困、甘い言葉、若さ、美しさ、見栄、貪欲、富み、怒り、憶測、怠惰、妬み、嫉妬、疎外感、暴力、愛欲、裏切り、金銭、見せかけ、これらは皆、人生の中に潜む障害です。
 まさに、穏やかな船路に漕ぎ出した船長が、向かい風の発生があったり静かな海からでも大嵐が巻き起こったりすることで行く手を阻まれるようなものであり、折悪しく冷害や干ばつや地中からの虫の被害をこうむる農場主であり、すんでのところで負けてしまう競技者であり、寸足らずの出来損ないを作ってしまう工芸家でもあります。

69 しかし、それらすべての人にも増して、信仰の人は、おのれの人生の終わりをよく考え、どのような様子で訪れるのかを理解しておく必要があるでしょう。ゆっくりと、冷静に、また何の心の妨げもないものなのか、あるいは心騒ぎ、世俗的な物事に気を取られ、欲望に固く捕えられているものなのか、ということです。
 そういうわけですから、我々が肉体の恵みを理解して賛美できるのは、肉体すべてを脱がされたときであり、将軍の偉大さを知るのは、戦いのすべての約束が成就されたときであって、医者の卓越さがわかるのは、すべての病が癒されたときなのです。
 同様に、完全な信仰と神を受け入れた魂というのは、約束が寸分違わずに遂行されて初めて証明されるものですから、始まりがよくても、この世のあらゆるものに捕らわれて滑り落ちていくなら、その魂を讃えることはできません。
 同じことですが、いい加減な魂は、多少の努力はしてみたとて、単なる一時的なものに過ぎないのであれば救われませんから、永遠なるものではなく、この世的なものを望んではならないし、恥でしかないものを尊敬してもならないし、悪魔に誓いを立ててはならないし、蛇を家に招いてはならないし、正しいことを笑いものにしてはならないし、神のために働く者を苦しめたりはずかしめてはならないし、行いが伴わず口先だけであってはならないのです。
 むしろ、汚らわしい享楽に骨抜きになることなく、怠惰に道を委ねることもなく、金銭欲に誘惑されることもなく、肉体の勢いや怒りに自分自身が裏切られることのないように、節操を守りなさい。」

70 このように、ヨハネが信者たちに、この世に拘泥することのないように教え、語り続けているうちに、ドルシアーナに横恋慕していた男は、激しい欲望に駆られ、さまざまな姿をまとった悪魔に感化されて、巨額の金で欲張りなアンドロニコスの召使いを買収した。召使は、ドルシアーナが埋葬された墓を暴くと男を墓場に残して、男が彼女の死体に禁断の行為ができるようにするつもりだった。
 彼女が生きている間は遂げることのできなかった行為を、死んだ後の彼女の体を使ってでもしてみたいと、男はまだ思い続けていて、次のようにつぶやいた。「生きていたならば、あなたは私と一つになることに同意しなかったかもしれない。しかし、今は死んでいるのだから、私はこれからあなたの肉体をはずかしめるつもりだ。」
 このような企みで、悪い召使いの手引きで忌まわしい行為の段取りをつけると、男は召使いと一緒に墓に突入し、玄室の扉を開けるやいなや、死体から死に装束をはがし始めて言った。
 「かわいそうなドルシアーナ、いったい何んの得があったのか。生きているうちにすることができなかったのか。喜んでこうしていてくれたら、あなたを苦しめることもなかったのに。」

71 下着だけが彼女の裸体に残り、あわや、すんでのところでというときに、どこからともなく一匹の毒蛇が現れて、まず召使いを一噛みで殺した。しかし、蛇は更にこの男を殺すことはなく、脚に巻き付いて恐ろしい勢いでシューシューと威嚇した。男が倒れると、蛇はその体にとぐろを巻いて座った。

72 翌日の明け方、ヨハネはアンドロニコスや信者たちと共に、墓場にやって来た。ドルシアーナの死から三日目のことである。その墓前で聖餐を行う予定だった。実は、ここに来るに際して、関係者が探し回っても、初め墓の鍵が見当たらなかった。すると、ヨハネはアンドロニコスに言った。
 「鍵を失くしたことは良かったのかもしれないよ。なぜなら、ドルシアーナは墓の中にはいないだろう。だから、このまま鍵なしで墓に急ぎましょう。あなたは、不用意に鍵を失くしたのではないかもしれませんよ。ちょうど、主が他の多くのことを我々に備えていてくださるように、墓の入口はすでに開いていることでしょう。」

73 私たちが墓場に着いて、ヨハネが命じると墓の入口が開いた。なんと、ドルシアーナの墓の傍らに、微笑んでいる見栄えのいい若者が立っているではないか。ヨハネは若者を見るなり叫んで言った。
 「おお、私たちより早く、あなたも来ていたのですか、みめうるわしい若者よ。いかなる事情でここにいらっしゃったのですか。」
 すると、ヨハネには、若者がこう言うのが聞こえた。
 「ドルシアーナのためです。今、彼女を生き返らせてあげましょう。しかし、彼女の墓室をすぐに探しあてたので、〔ついでながら〕彼女の墓の側で死んでいた男のためでもあります。」
 美しい若者はヨハネにそう言い終えると、我々が見ている前で天に昇って行った。それから、墓の反対側をヨハネが振り返って見ると、エペソの町の有力者であるカリマコスという若者とアンドロニコスの召使いであるフォーツナトスという男が死んで横たわっていた。カリマコスの上には大きな蛇が寝ている。二人の姿を見たヨハネは、驚愕して立ち尽くし、仲間の信者たちに言った。
 「この光景の意味するものは何だ。ここで何が起きたのかを、主はなにゆえ私にお示しくださらないのか。今まで私をないがしろになさったことは一度もないのに。」

74 また、アンドロニコスは、二人が死んで横たわっているのを見るなり、急いでドルシアーナの墓に降りて行った。下着だけになったドルシアーナを発見すると、彼はヨハネに言った。
 「祝福された神のしもべ、ヨハネ様、何が起こったのか私はわかりました。この男カリマコスは、私の信仰の姉であり妹〔である妻〕に恋していました。ところが、何度試みても彼女を自分のものにすることが叶わないので、この呪われた私の召使いを多額の金銭で買収したのです。
 恐らく、今我々が目にしているように、かねてからの痛ましい企みを、この召使いの手引きで実行しようとしたに違いありません。実際、カリマコスという男は、多くの人に『たとえ、彼女が生きている間に私と添い遂げてくれなくても、死んだ彼女の体を犯すつもりでいる。』と公言していました。
 だから、ヨハネ様、あの凛々しいお方がドルシアーナの亡骸が汚されないように取り計らってくださったのです。悪だくみを謀った二人がここに死んで横たわっているのはそのためです。そうであれば、あのお方がヨハネ様におっしゃったことは、『ドルシアーナを生き返らせよ!』という予言だったのではないでしょうか。
 彼女は、男のつまずきの石になってしまったのではないかと心配し、深い悲しみのために命を失いました。あのお方が言っていたそこに倒れている二人の男の一人が、彼女に心迷わされた男であると信じます。それゆえ、ヨハネ様は、彼をも生き返らせることを命じられたことになるでしょう。もう一人の男については、救う価値のないことを知っています。
 今、ヨハネ様にお願い申し上げます。〔ドルシアーナよりも先に〕まず、このカリマコスを生き返らせてください。彼こそが、ここで何があったのかを、我々に明らかにするはずです。」

75 そこでヨハネは、男の死体に目をやると、その上の毒蛇に向かって「その男から離れなさい。彼はイエス・キリストの僕となるのだから。」と話しかけた。それから男の前に立ち、このような祈りを捧げた。
 「おお神よ、御名が我々によって正当に崇められるお方。神よ、あらゆる危害を及ぼす力を征服してくださるお方。神よ、御心を成就し、我らにいつも耳を傾けてくださるお方。どうか、お恵みを、この〔死んで横たわっている〕若者に与えてください。そして、この男を用いた神の摂理があるのでしたら、どうか彼の命のよみがえりとともに我らにお示しください。」
 祈りが終わると同時に若者は立ち上がった。しかし、一刻の間、彼は沈黙したままだった。

76 しかし、彼がようやく正常な意識を取り戻すと、ヨハネは、彼が墓室に入っていた次第について問いただした。アンドロニコスが話していたように、彼はドルシアーナに恋い焦がれていたということだった。そこで更にヨハネは詰問した。
 「お前は、完全に清純なご御遺体をはずかしめるという忌まわしい企てに成功したのかね。」
 それに対して男は答えた。
 「どうして、思いを遂げることなどできましょうか。そのとき、この恐ろしい生き物がフォーツナトスに襲いかかり、私の目の前で一噛みで殺したのですから。実際、私はこんなたいそれた気違いじみたことはとうに諦めていたのに、この召使いが再び狂気に火をつけたのです。しかし、彼が目の前で死んだことは、私を恐怖で押し止めることになりました。その後の状況は、あなたが私を生き返らせる前の状態だったことになります。
 更に、私の企てを押し止めたり、私が死ぬことになったことよりも、もっと驚くべきことを申し上げます。私の魂が狂気に走り、制御できない病が身をさいなんでいたとき、つまり、彼女の着ている死に装束をほぼ脱がしかけ、脱がしたものをいったん墓の外に持ち出して、ご覧の通りに並べてから、悪辣な作業のために墓室に再び戻ると、若いハンサムな男が下着姿の彼女の死体を自分の外套で覆い隠しているのが見えました。しかも、彼の顏から出る光の束が、彼女の顏を照らしていたのです。
 それから、その美しい若者はまた、私に話しかけました。『カリマコス、生きるために死になさい。』実際に、その声の通りになりました。不信仰で無法者で神をも恐れない男は死にました。そして、あなた様の手で生き返らせてもらったのです。どうぞ、私に真理とは何かお示しください。そうすれば、私も信心深く神を恐れる者となりましょう。」

77 かくしてヨハネは、男の救いに関する今まで語られた全光景を思い描いて、大きな喜びに満たされて言った。
 「ああ、何という偉大なお力でしょう、イエス・キリスト様。私は今まで無知でした。今、あなたの素晴らしい慈悲の心と限りない寛容さに驚いています。おお、この世という束縛に舞い降りた偉大なるお力! おお、奴隷の身に訪れた筆舌に尽くしがたい自由! おお、幽閉の地に訪れた言いようのない気高さ! 
 おお、霊妙な輝きよ、あなたは我らの擁護者です! 私たちは不名誉なことから命のない枠にはめられ、またこの男のようにあらゆる面で放埓のそしりをどこまで行っても免れないのに、それでもなお、荒れ狂う悪魔のくつわをとらえて、真っ当な感覚を失った男に憐れみを覚えてくださり、我らの唯一の王でいてくださる!
 血で汚れた男の救世主、埋葬された男の矯正者、財産を使い果たした男をも退けることなく、悔い改めれば御顔を背けることもないお方! 自暴自棄の男にも、憐れみと思いやりを示される父なる神! 聖なるイエスよ、我らはあなに栄光を帰し、あなたを賛美し、崇め、あなたの偉大な良きものと広い心に感謝します。あらゆる陰謀を凌駕する力が、今もまた世々永遠に、あなたにあらんことを、アーメン。」

78 ヨハネが、そのように祈り、カリマコスを抱き寄せ、キスしてから言った。
 「栄光は我らが神に。我が子よ、イエス・キリストはあなたを憐れんでくださった。また、御力を崇める者として私を召してくださったように、あなたをも召してくださった。それは、あなたの狂気と狂乱を鎮め、価値ある者として、神の安らぎと命の再生に招くためだったのです。」

79 しかし、アンドロニコスがカリマコスを死からよみがえらせたのを見ると、他の信者らと一緒になって、ドルシアーナも同様に生き返らせてくれるように、ヨハネに懇願して言った。
 「ヨハネ様、ドルシアーナを生き返らせてください。そして、しばしの間でもこの世で幸せに暮らさせてください。その人生こそ、誘惑の元となってはいけないと心配して、このカリマコスに関わる苦悩ゆえに断念した暮らしなのです。その上で、主の御心であれば、再び主の許へ旅立つのも致し方ありません。」
 ヨハネはすぐさま墓室に向かい、ドルシアーナの手を取って祈った。
 「神のみにお願い申し上げます。これ以上ない偉大な方で、永遠なる方に。あらゆる国の王権が従いあらゆる権威がひざまずくお方に。このお方の前では、いかなる高慢も謙虚となって静まり、いかなる不遜も勢いを弱めて沈黙を守ります。
 悪魔も聞き従い戦慄するお方に。あなたにあって、生きとし生けるものすべてが己をわきまえて則を超えません。あなたを、この世の体と血が知りうることはありません。御名が崇められますように。
 どうかドルシアーナを生き返らせてください。そうして、カリマコスが、あなたへの信仰において、ますます強められますように。人の力ではなしえない不可能なことをも備えてくださるお方、あなただけが救いもよみがえりも可能とされます。
 今、ドルシアーナは心安らかです。既に、あの若者は心入れ替えてあなたに従っているのですから、もはやあなたの御許に行くことをことさら急がなければならない妨げは少しもありません。」

80 このように祈り終えると、ヨハネは宣言した。
 「ドルシアーナ、よみがえりなさい!」 
 たちどころに彼女は起き上がり、墓から出て来た。下着だけの自分の姿に気づくや、何が起こったのか理解できず、ただ困惑していた。ヨハネが深くこうべを垂れ、カリマコスが上ずった声で泣き、涙ながらに神を讃えているうちに、アンドロニコスからすべての真実を知らされたドルシアーナも、一緒になって喜び、神を賛美した。

81 彼女が身づくろいを終えたとき、召使いのフォーツナトスが死んで横たわっていることに気づいた。彼女はヨハネに懇願して言った。
 「父なるヨハネ様、この男も生き返らせていただけないでしょうか。この男は、私を裏切るためにだけ生きてしまったのですから。」
 この言葉をカリマコスが聞いて彼女に言った。
 「いけません、ドルシアーナ、お願いだからやめてください。というのは、私が聞いた〔『生きるために死になさい』〕という声は、彼を考慮したことではなかったのです。また、よみがえらせてくださると言われたのはあなただけです。それを目の当たりにして私は信じたのです。
 もし彼がよい人であったのなら、疑いなく神は彼をも憐れみ、祝福されたヨハネ様の力で生き返らせたはずです。この召使いが悪い結末で終わることはわかっていたのです。」
 すると、ヨハネカリマコスに言った。
 「我が子よ、悪をもって悪に報いることを私たちは学んでこなかった。だから、神も同様に、我々がどれだけ悪を行い、神に対して何一つよいことを行わなかったとしても、罰をお与えなさることはなく、ただ悔い改めを望んでいらっしゃるのです。たとえ、御名を忘れていても、見捨てることなく、慈しんでくださいます。
 あろうことか、神を罵ったとしても、罪に定めることなく、憐れんでくださいます。我々が不信仰に陥ったときも、少しも恨んだりはなさいません。我々が信仰の友をたまたま迫害したとしても、報復なさることはありません。たとえ、忌まわしく恐ろしい行いをしてしまっても、神は我々をはねつけられません。ただ、悔い改めに導いてくださり、悪事から遠ざけてくださり、御許へ来るようにいざなってくださいます。
 だから、我が子、カリマコスよ、あなたも神に召されたのです。あなたの過去の悪行に拘泥することなく、あなた自身も慈しみをもって神に仕えるように、神の僕としてお造りになったのですよ。私がフォーツナトスを生き返らせるのをあなたがたとえ阻止したとしても、その使命はドルシアーナが引き継ぎます。」

82 ドルシアーナの動きは素早かった。魂が踊り、心からの喜びのうちに、フォーツナトスの遺体に駆け寄り、祈った。
 「おお、とこしえの神よ、イエス・キリスト、真実の神。この私に不思議と印を賜りあなたの御名を分かち合う者としてくださったお方。お姿をさまざまな形で現わしてくださり、さまざまな方法で恵みをくださったお方。かつて私の配偶者アンドロニコスがふるった暴力から大いなる慈しみで守ってくださり、結局は信仰の友としてアンドロニコスを神の僕に造り替えてくださったお方。
 あなたのはしためである私を今日まで清いままに保ち、死んでいた私を、あなたの働き人ヨハネ様によってよみがえらせたお方。私が生き返ったときに、あの男がつまずきの石につまずかない者として変えられていることを示してくださったお方。私に完全な安らぎをくださり、密かな狂気から解放してくださったお方。私はあなたを愛し信じます。
 イエス・キリスト様、あなたにお願い申し上げます。どうぞ、このドルシアーナの頼みを拒まないでください。どうか、もう一度、このフォーツナトスに命を与えてください。このままでは、私の裏切者としてこの世を生きただけになってしまいます。」

83 彼女は、死んでいる男の手を取ると、命じた。
 「たとえ、あなたが神のはしためである私の最悪の敵であったとしても、我らが主、イエス・キリストの御名によって、フォーツナトスよ、起きよ!」
 フォーツナトスも生き返ると、墓場にいるヨハネの姿を見た。アンドロニコスは、今や死からよみがえったドルシアーナと共にいた。信者となったカリマコスは、他の信者たちと神を讃えていた。すると、フォーツナトスは叫んだ。
 「おお、このような人々の力の結末はどうなるのか! 私はこのように生き返りたくなどなかった。この人たちを見なくてもいいように、死んだままでいたい。」
 この叫びと共に、彼は墓場から走って逃げた。

84 するとヨハネは、フォーツナトスの魂が変わらないことを見て取ると、言った。
 「おお、より良きことを求めえない性質(さが)よ。頑なに悪辣な地に住める魂の泉よ。漆黒の暗闇に潜む汚濁の真髄よ。己のうち籠って歓喜する死よ。実のみのらぬ火だるまの樹よ。果実の代わりに炭を生やす樹よ。狂気の沙汰と連れ添う不信仰の隣人よ。お前はお前が何者であるかをさらして、常にお前の子供と共に罪に定められる運命だ。お前はより良きものをどのように賛美してよいかを知らない。それは、そのようなものを得たことがないからである。
 それゆえ、お前の生き方がそうであるように、実も根も性質も腐っている。それゆえお前は除かれる。主に望みを置く人々から、信仰の思いから、その心から、その魂から、その体から、その行いから、その命から、その交わりから、その生き方から、その仕事から、その弁護から、復活の安らぎから、その香しさの分け前から、その信仰から、その祈りから、その聖なる洗礼から、その聖餐から、その体の糧から、その飲み物から、その衣から、その愛餐の交わりから、その世話から、その禁欲から、その正義から、その他これらのすべてから、この上ない邪悪な悪魔よ、神に逆らう者よ、我らの神イエス・キリストは、お前やお前に付き従って同じ行いをする者を取り除き絶やすであろう。」

85 このように宣言してから、ヨハネはパンを取り、墓室に入って聖餐のためにそのパンを裂き、祈りを捧げた。
 「あなたの御名を崇めます。我らを過ちと冷酷な欺瞞から正しい道に向きを変えてくださったお方を。今、眼前で行われたことを、我らにお示しくださった方の栄光を讃えます。さまざまな方法でお示しくださったご慈愛を、証する者となるつもりです。あなたの恵み深い御名を賛美しします。おお、主よ、あなたはあなた自身の手で、罪に定められるべきものは罪に定めます。
 しかし、感謝なるかな、主なるイエス・キリスト様、あなたは我らをあなたの変わらぬお恵みで説き聞かせてくださいました。我らを救うべき者として、あなたが必要としてくださったことに感謝します。また、このような信じる心をお与えくださったことに感謝します。あなたこそ、今も明日も世々永遠に生きている神です。我らはその僕(しもべ)として、良き心をもって集い、あなたを、聖なるお方を賛美申し上げます。」

86 こう祈り終え、神を賛美してから、ヨハネは信者ら皆に主の聖餐を配り終えると、墓場を後にした。それからアンドロニコスの家に入り、信者らに告げた。
 「我が信仰の兄弟たち、ある私の内なる精神が予言しています。フォーツナトスは、毒蛇に噛まれて黒くなり死ななければなりません。しかし、この予言が正しいのかどうか、誰か急いで行って確かめてほしい。」
 そこで、若者の一人が急いで行ってみると、果たして体が膨れ上がり、黒味が全身に回って心臓に達している彼を見つけた。若者は帰ってくると、ヨハネに、彼は三時間前に死んだと伝えた。すると、ヨハネが言った。
 「悪魔よ、お前の息子だ。」
 

『わが青春のマリアンヌ』と二人のモーゼス・メンデルスゾーン

 今どきの人は『わが青春のマリアンヌ』と聞いてもわからないだろう。これは日本で公開されたときのジュリアン・デュヴィヴィエ監督のフランス映画の題名(1955年)であり、同じ頃、同映画の原作(原文はドイツ語)を日本語で出版したときの題名でもある。
 日本語版は訳者と出版社が異なるものが3種出回ったが、ドイツ語版原作からなのか、フランス語訳からの重訳なのかよくわからないものもある。それらは、大野俊一訳(雲井書店、1955年)、小松太郎訳(早川書房、1955年)、岡田真吉訳(三笠書房、1964年)である。そもそも、同時に翻訳権を得たことさえ、現在の出版常識では理解できない。実は、ドイツ語の原作の題名は『わが青春のマリアンヌ』とは訳せないのだが、そのことについては後述する。
 原作者はピーター・ドゥ・メンデルスゾーン(Peter de Mendelssohn)というドイツ系英国人作家である。1908年6月1日に南独のミュンヘンユダヤ系ドイツ人として生まれたが、ナチス台頭の頃にイギリスに渡り、英国に帰化したため英国籍を持っていた。しかし、1970年に生地ミュンヘンに戻り、晩年はそこで暮らして1982年8月10日に76歳で生涯を終え、同地に埋葬されている。墓所は Bogenhausener Friedhof。

 さて、二人のモーゼス・メンデルスゾーンだが、同姓同名の、しかもほぼ同時期の別人の話である。普通、Moses Mendelssohnと言われて思い浮かべるのは18世紀の著名なユダヤ人思想家(1729−1786年)のことだろう。
 彼は市井の論客で正規の学歴はなかったし、職業はベルリン市内の繊維工場主だった。しかし、非凡の才能があり、多少の個人的指導は仰いだようであるが、研究に必要な自然科学や諸言語の習得もほぼ独学だった。思想史的位置づけでは、ユダヤ教啓蒙主義者であり、現代の改革派ユダヤ教思想の嚆矢とも言える。その自由主義的傾向のためなのか、6人の子供の内4人はユダヤ教を捨ててキリスト教に改宗している。
 彼の名声がドイツ語圏文化人の間で高まったのは、1763年にベルリン王立科学アカデミー(Königlichhen Akademie der Wissenschaften in Berlin)の懸賞論文で首席になったことだった。論文の題名は「形而上学的な科学の根拠に関する論考(Abbhandlung über die Evidenz in metaphysischhen Wissenschaften)」。この時、次席に甘んじたのは、イマヌエル・カントだった。カントはまだ批判哲学を書く前ではあったが、すでに同アカデミーの常連投稿者であり、メンデルスゾーンより年長の職業的学者(大学人)であった。
 このメンデルスゾーンは、ゴットホルト・エフライム・レッシングの劇作『賢者ナタン(Nathan der Weise)』のモデルであり、レッシングの親友でもある。また、ドイツロマン派作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父であることでも有名だ。フェリックスはソロモンの二男で銀行家アブラハムの息子である。なお、フェリックスの姉ナニーも当時著名な音楽家だった。しかし、彼らだけではない。このメンデルスゾーンの家系が実に華やかであることは、ウィキペディアのMendelssohn Family(英)またはMendelssohn (Familie)(独)で検索すれば一望できる。

 『わが青春のマリアンヌ』の原作者ピーターの来歴を調べていた際、彼の高祖父に当たる人物の名が、上記の有名なモーゼス・メンデルスゾーンと同姓同名であり、しかもほぼ同時期であった。私はいささか驚き、嬉しく思ったがすぐに別人とわかってしまった。しかし、調べていくうちに、このピーターの高祖父からピーター本人に至る家族も、有名なメンデルスゾーン家に見劣りしない家系であることが判明したので、書きつけておく価値はあると思った。以下に簡単に紹介する。資料は極めて安直ながら、ドイツ語版ウィキペディアから始まり、米国の家系図ネットワーク(Randy Schoenberg's GENi)等を利用したが、煩雑になるのでいちいち注記しない。
 ピーターの高祖父であるモーゼス・メンデルスゾーン(1778−1848年)は、父の名前がレヴィ・メンデル(Levi Mendel、生没年未詳)であり、父の代まではドイツ語で「メンデルの子」という意味のMendelssohn(ユダヤ式ならben Mendel)という姓を名乗っていなかった。モーゼスは北海に近い北ドイツのJever(地元の発音はイェーファ、標準ドイツ語ではイェーヴァ)のユダヤ系ドイツ人の家系で、商人でありながらも教育者であり藝術の素養もあった。
 彼にソロモン・メンデルスゾーン(Solomon、1813−1892年)という息子がいて、これがピーターの曽祖父になる。曽祖父ソロモンは北ドイツで体育学の理論家で教育家。数冊の著書がある。また、彼の弟ヨーゼフ(Joseph、1817−1856年)は、文筆家だった。彼らが正式の大学教育を受けていたかどうかはわからないが、少なくとも中等教育以上の学識はあった。
 しかし、ソロモンの息子、すなわちピーターの祖父であるルートヴィヒ・フォン・メンデルスゾーン(Ludwig von Mendelssohn、1852−1896年)となると、ゲッティンゲン大学ライプツィヒ大学で学び、後者の大学で、古典学者フリードリヒ・リッチル(Friedrich Ritschl、1806−1876年)の許で教授資格(Habilitation、1874年)を得ている。初めライプツィヒ大学の私講師(Privadozent)をしていたが、バルト三国の一つエストニアの名門である当時のドルパット大学(Universität Dorpat、現在のUniversität Tartu)教授に納まった。当時、バルト三国ユダヤ人の多い国だった。
 このルートヴィヒが初めて貴族階級を表わす「von」を姓の前に置いた。また、彼は当時ユダヤ人が正規の大学教授に就任する際の習慣で、ユダヤ教からキリスト教ルター派)に改宗している。自らも貴族階級となり、またエストニアで大学に職を得たのは、正確な前後関係は不明だが、恐らくエストニアでの大地主の貴族の娘アレクサンドリーネ・フォン・クラマー(Alexandrine von Cramer、1849−1923年)の援助があったものと思われる。
 彼女はピーターの祖母に当たるが、祖父ルートヴィヒより年上にも拘わらず長命で、ピーターが高等学校に通う頃まで生きていた。また、彼女の資産のお蔭で子供たちや孫まで不自由なく暮らせたという証言もある。この祖父母の二番目の息子がピーターの父ゲオルク・フォン・メンデルスゾーン(Georg von Mendelssohn、1886−1955年)であり、職業は金細工などの工芸家だった。ゲオルクには、ピーターの伯父伯母叔父に当たる兄姉弟がそれぞれ一人いて、いずれも文筆や翻訳を生業としていた。
 ピーターの母の名前はガータ・マリア・メタ・クラソン(Gerta Maria Meta Clason、生年未詳)だが、父ゲオルクと離婚後、再婚してアメリカに渡り1961年に同国で没した。再婚相手との子はなく、子供たちはすべてゲオルクとの間にできた子で、男三人女一人であった。その中で、ピーターは長男で長子である。ピーターの三人の兄弟は次の通り。すぐ下の弟と妹は二卵性双生児だった。なお、父ゲオルクは工芸家エヴァ・フォン・シュトゥセル(Eva von Stössel、生没年未詳)と再婚し娘エヴァ・マリア・ウィルソン(Eva-Maria Wilson、生没年未詳)をもうけているので、ピーターは腹違いの末の妹がいたことになる。
 すぐ下の弟トーマス(Thomas、1910−1945年)はトルコに渡りそこで没した。妹マーゴット(Margot、1910−1982年)は、母親同様にアメリカに渡って生活した。末の弟フェリックス(Felix、1918−2008年)はローザンヌ大学で医学を修め、精神科医心理療法家になった。彼はスイスから一時アメリカに渡ったが、兄ピーターが1970年から暮らしていたミュンヘンに戻り、1972年以降、そこで医業をしながら2008年に生涯を閉じた。

 ここで、ピーターの妻にも触れておく。彼女の名前はヒルデ・シュピール(Hilde Spiel、1911−1990年)といい、ウィーンのユダヤ人素封家の娘でウィーン大学で1935年に哲学でPh.D.の学位を得ている。彼女の博士論文の題は「映画の表現理論の試み(Versuch einer Darstellungstheorie des Films)であり、同大学に現存するのを確認した。1936年にピーターと同時に渡英してロンドンで結婚した。彼女はドイツ語で著作し、 Grace Hanshaw あるいは Jean Lenoirという筆名も使っている。
 しかし、彼女はピーターとの間に一男一女をもうけるが1963年には別居して彼の許を離れ、ロンドンから故郷のウィーンに帰国してしまった。1970年にピーターがドイツのミュンヘンに帰国した年には正式に離婚している。その後、彼女は1972年に再婚し(夫はBBC職員だったHans Flesch von Brunningen)1990年に没するまでウィーンで過ごし、両親と先に死んだこの二度目の夫ハンスとともに同地で眠っている。墓所は同市のユダヤ人墓地Bad Ischlであり、墓碑銘での名はHilde Maria Flesch-Brunningenとなっている。

 彼らの一男一女についても紹介しておく。二人とも存命である。息子の名前はピーターの末の弟である精神科医の名前Felix von Mendelssohnと同じフェリックス(Felix de Mendelssohn、1944年ロンドン生まれ)だが、高名な叔父にあやかるためにAnthonyという名前から改名した可能性もある(ドイツ国図書館人名資料参照、また叔父はvonであるが、この息子は父と同じde であることに注意)。
 息子フェリックスは精神分析と集団心理の専門家ということでベルリンで開業する傍ら、2005年にウィーンに新設された私立大学ジークムント・フロイト大学(SFU)の講師となっているが、不思議なことにどの履歴書にも学歴と学位が記入されていない。なお、米国の女流哲学者で社会運動家のスーザン・ナイマン(Susan Neiman、1955年アトランタ生まれ、ハーヴァード大学Ph.D.)と婚姻関係にあるという(ドイツ語版ウィキペディアのフェリックスの項目にはそのように記されているが、ナイマンの項目には英独双方の版に記述がない)。
 娘の名前はクリスティン・シャトルワース(Christine Shuttleworth)。現在もロンドンに在住する独-英の翻訳家で母親の著作の英語訳もしている。本人が年齢をFacebook等で非公開としているので一男であるフェリックスの上なのか下なのかは不明だが、恐らく姉であろう。学歴はオックスフォード大学卒の文学士。

 さて、家系もここまで辿ると妙に生々しい。現存する人間まで紹介するべきではないのかもしれない。そういえば、思想家モーゼス・メンデルスゾーンウィキペディア家系図も存命子孫の一歩手前で止めている。ピーターとヒルデの息子フェリックスと娘クリスティンの素顔は、YouTubeや写真検索でいくらでも出て来る。その印象は・・・いや、コメントするのはやめておこう。

 話を『わが青春のマリアンヌ』に戻そう。作者のピーターが書いた原作のドイツ語の題名はSchmerzliches Arkadien(「苦悩のアルカディア」1932年)であり、フランス語版も小説はDouloureuse Arcadie(1935年)であるからドイツ語版の直訳だった。なお、アルカディアとは本来はギリシアペロポネソス半島の高原地帯であるが、比喩的に「素朴な理想郷」を意味する。理想郷がなにゆえ苦悩に満ちているかというと、その素朴さゆえ、その幼さゆえのことであろう。
 従って、青春の若者の素朴さゆえの苦悩が題材であるから、1955年のデュヴィヴィエ監督によるフランス映画では題名を『わが青春のマリアンヌ( Marianne de ma jeunesse)』としたこともうなずける。日本語訳の小説も、三者とも申し合わせたように『わが青春のマリアンヌ』としたのは、映画化にあやかって売らんがなの目論見であることは自明である。マリアンヌ(Marianne)というのは女主人公の名前。ただし、ドイツ語ではマリアンネと発音する。

 ミュンヘン生まれのピーターはナチスの台頭に呼応するかのようにドイツからウィーンに逃れ、更にパリに渡った。パリ時代に、この小説のフランス語訳の企画が生まれたのだが、結局、彼は1936年にロンドンに亡命して英国国籍を取得する。彼は、それまでに出生時の名前Peter von Mendelssohnからフランス風のPeter de Mendelssohnに改名していた。

 ここまで来ると、読者は『わが青春のマリアンヌ』の中身を知りたいだろう。映画ならばDVDがまれに手に入るがフランス語版が多い。また、小説ならドイツ語版は容易に手に入る。しかし、フランス語版と日本語版は多少難しいが入手不可能ではない。ということで、ネタばれは控えることにする。ご容赦あれ。

 (念のために申し上げたいこと二つ。日本語訳で「ピーター(Peter)」を「ペーター」としているがドイツ語ではそのように発音すると勘違いしているようだ。ドイツ語の発音もピーターである。また、町山智浩という人のこの映画案内をYouTubeで聞いたが間違いだらけだった。)