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『わが青春のマリアンヌ』と二人のモーゼス・メンデルスゾーン

 今どきの人は『わが青春のマリアンヌ』と聞いてもわからないだろう。これは日本で公開されたときのジュリアン・デュヴィヴィエ監督のフランス映画の題名(1955年)であり、同じ頃、同映画の原作(原文はドイツ語)を日本語で出版したときの題名でもある。
 日本語版は訳者と出版社が異なるものが3種出回ったが、ドイツ語版原作からなのか、フランス語訳からの重訳なのかよくわからないものもある。それらは、大野俊一訳(雲井書店、1955年)、小松太郎訳(早川書房、1955年)、岡田真吉訳(三笠書房、1964年)である。そもそも、同時に翻訳権を得たことさえ、現在の出版常識では理解できない。実は、ドイツ語の原作の題名は『わが青春のマリアンヌ』とは訳せないのだが、そのことについては後述する。
 原作者はピーター・ドゥ・メンデルスゾーン(Peter de Mendelssohn)というドイツ系英国人作家である。1908年6月1日に南独のミュンヘンユダヤ系ドイツ人として生まれたが、ナチス台頭の頃にイギリスに渡り、英国に帰化したため英国籍を持っていた。しかし、1970年に生地ミュンヘンに戻り、晩年はそこで暮らして1982年8月10日に76歳で生涯を終え、同地に埋葬されている。墓所は Bogenhausener Friedhof。

 さて、二人のモーゼス・メンデルスゾーンだが、同姓同名の、しかもほぼ同時期の別人の話である。普通、Moses Mendelssohnと言われて思い浮かべるのは18世紀の著名なユダヤ人思想家(1729−1786年)のことだろう。
 彼は市井の論客で正規の学歴はなかったし、職業はベルリン市内の繊維工場主だった。しかし、非凡の才能があり、多少の個人的指導は仰いだようであるが、研究に必要な自然科学や諸言語の習得もほぼ独学だった。思想史的位置づけでは、ユダヤ教啓蒙主義者であり、現代の改革派ユダヤ教思想の嚆矢とも言える。その自由主義的傾向のためなのか、6人の子供の内4人はユダヤ教を捨ててキリスト教に改宗している。
 彼の名声がドイツ語圏文化人の間で高まったのは、1763年にベルリン王立科学アカデミー(Königlichhen Akademie der Wissenschaften in Berlin)の懸賞論文で首席になったことだった。論文の題名は「形而上学的な科学の根拠に関する論考(Abbhandlung über die Evidenz in metaphysischhen Wissenschaften)」。この時、次席に甘んじたのは、イマヌエル・カントだった。カントはまだ批判哲学を書く前ではあったが、すでに同アカデミーの常連投稿者であり、メンデルスゾーンより年長の職業的学者(大学人)であった。
 このメンデルスゾーンは、ゴットホルト・エフライム・レッシングの劇作『賢者ナタン(Nathan der Weise)』のモデルであり、レッシングの親友でもある。また、ドイツロマン派作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父であることでも有名だ。フェリックスはソロモンの二男で銀行家アブラハムの息子である。なお、フェリックスの姉ナニーも当時著名な音楽家だった。しかし、彼らだけではない。このメンデルスゾーンの家系が実に華やかであることは、ウィキペディアのMendelssohn Family(英)またはMendelssohn (Familie)(独)で検索すれば一望できる。

 『わが青春のマリアンヌ』の原作者ピーターの来歴を調べていた際、彼の高祖父に当たる人物の名が、上記の有名なモーゼス・メンデルスゾーンと同姓同名であり、しかもほぼ同時期であった。私はいささか驚き、嬉しく思ったがすぐに別人とわかってしまった。しかし、調べていくうちに、このピーターの高祖父からピーター本人に至る家族も、有名なメンデルスゾーン家に見劣りしない家系であることが判明したので、書きつけておく価値はあると思った。以下に簡単に紹介する。資料は極めて安直ながら、ドイツ語版ウィキペディアから始まり、米国の家系図ネットワーク(Randy Schoenberg's GENi)等を利用したが、煩雑になるのでいちいち注記しない。
 ピーターの高祖父であるモーゼス・メンデルスゾーン(1778−1848年)は、父の名前がレヴィ・メンデル(Levi Mendel、生没年未詳)であり、父の代まではドイツ語で「メンデルの子」という意味のMendelssohn(ユダヤ式ならben Mendel)という姓を名乗っていなかった。モーゼスは北海に近い北ドイツのJever(地元の発音はイェーファ、標準ドイツ語ではイェーヴァ)のユダヤ系ドイツ人の家系で、商人でありながらも教育者であり藝術の素養もあった。
 彼にソロモン・メンデルスゾーン(Solomon、1813−1892年)という息子がいて、これがピーターの曽祖父になる。曽祖父ソロモンは北ドイツで体育学の理論家で教育家。数冊の著書がある。また、彼の弟ヨーゼフ(Joseph、1817−1856年)は、文筆家だった。彼らが正式の大学教育を受けていたかどうかはわからないが、少なくとも中等教育以上の学識はあった。
 しかし、ソロモンの息子、すなわちピーターの祖父であるルートヴィヒ・フォン・メンデルスゾーン(Ludwig von Mendelssohn、1852−1896年)となると、ゲッティンゲン大学ライプツィヒ大学で学び、後者の大学で、古典学者フリードリヒ・リッチル(Friedrich Ritschl、1806−1876年)の許で教授資格(Habilitation、1874年)を得ている。初めライプツィヒ大学の私講師(Privadozent)をしていたが、バルト三国の一つエストニアの名門である当時のドルパット大学(Universität Dorpat、現在のUniversität Tartu)教授に納まった。当時、バルト三国ユダヤ人の多い国だった。
 このルートヴィヒが初めて貴族階級を表わす「von」を姓の前に置いた。また、彼は当時ユダヤ人が正規の大学教授に就任する際の習慣で、ユダヤ教からキリスト教ルター派)に改宗している。自らも貴族階級となり、またエストニアで大学に職を得たのは、正確な前後関係は不明だが、恐らくエストニアでの大地主の貴族の娘アレクサンドリーネ・フォン・クラマー(Alexandrine von Cramer、1849−1923年)の援助があったものと思われる。
 彼女はピーターの祖母に当たるが、祖父ルートヴィヒより年上にも拘わらず長命で、ピーターが高等学校に通う頃まで生きていた。また、彼女の資産のお蔭で子供たちや孫まで不自由なく暮らせたという証言もある。この祖父母の二番目の息子がピーターの父ゲオルク・フォン・メンデルスゾーン(Georg von Mendelssohn、1886−1955年)であり、職業は金細工などの工芸家だった。ゲオルクには、ピーターの伯父伯母叔父に当たる兄姉弟がそれぞれ一人いて、いずれも文筆や翻訳を生業としていた。
 ピーターの母の名前はガータ・マリア・メタ・クラソン(Gerta Maria Meta Clason、生年未詳)だが、父ゲオルクと離婚後、再婚してアメリカに渡り1961年に同国で没した。再婚相手との子はなく、子供たちはすべてゲオルクとの間にできた子で、男三人女一人であった。その中で、ピーターは長男で長子である。ピーターの三人の兄弟は次の通り。すぐ下の弟と妹は二卵性双生児だった。なお、父ゲオルクは工芸家エヴァ・フォン・シュトゥセル(Eva von Stössel、生没年未詳)と再婚し娘エヴァ・マリア・ウィルソン(Eva-Maria Wilson、生没年未詳)をもうけているので、ピーターは腹違いの末の妹がいたことになる。
 すぐ下の弟トーマス(Thomas、1910−1945年)はトルコに渡りそこで没した。妹マーゴット(Margot、1910−1982年)は、母親同様にアメリカに渡って生活した。末の弟フェリックス(Felix、1918−2008年)はローザンヌ大学で医学を修め、精神科医心理療法家になった。彼はスイスから一時アメリカに渡ったが、兄ピーターが1970年から暮らしていたミュンヘンに戻り、1972年以降、そこで医業をしながら2008年に生涯を閉じた。

 ここで、ピーターの妻にも触れておく。彼女の名前はヒルデ・シュピール(Hilde Spiel、1911−1990年)といい、ウィーンのユダヤ人素封家の娘でウィーン大学で1935年に哲学でPh.D.の学位を得ている。彼女の博士論文の題は「映画の表現理論の試み(Versuch einer Darstellungstheorie des Films)であり、同大学に現存するのを確認した。1936年にピーターと同時に渡英してロンドンで結婚した。彼女はドイツ語で著作し、 Grace Hanshaw あるいは Jean Lenoirという筆名も使っている。
 しかし、彼女はピーターとの間に一男一女をもうけるが1963年には別居して彼の許を離れ、ロンドンから故郷のウィーンに帰国してしまった。1970年にピーターがドイツのミュンヘンに帰国した年には正式に離婚している。その後、彼女は1972年に再婚し(夫はBBC職員だったHans Flesch von Brunningen)1990年に没するまでウィーンで過ごし、両親と先に死んだこの二度目の夫ハンスとともに同地で眠っている。墓所は同市のユダヤ人墓地Bad Ischlであり、墓碑銘での名はHilde Maria Flesch-Brunningenとなっている。

 彼らの一男一女についても紹介しておく。二人とも存命である。息子の名前はピーターの末の弟である精神科医の名前Felix von Mendelssohnと同じフェリックス(Felix de Mendelssohn、1944年ロンドン生まれ)だが、高名な叔父にあやかるためにAnthonyという名前から改名した可能性もある(ドイツ国図書館人名資料参照、また叔父はvonであるが、この息子は父と同じde であることに注意)。
 息子フェリックスは精神分析と集団心理の専門家ということでベルリンで開業する傍ら、2005年にウィーンに新設された私立大学ジークムント・フロイト大学(SFU)の講師となっているが、不思議なことにどの履歴書にも学歴と学位が記入されていない。なお、米国の女流哲学者で社会運動家のスーザン・ナイマン(Susan Neiman、1955年アトランタ生まれ、ハーヴァード大学Ph.D.)と婚姻関係にあるという(ドイツ語版ウィキペディアのフェリックスの項目にはそのように記されているが、ナイマンの項目には英独双方の版に記述がない)。
 娘の名前はクリスティン・シャトルワース(Christine Shuttleworth)。現在もロンドンに在住する独-英の翻訳家で母親の著作の英語訳もしている。本人が年齢をFacebook等で非公開としているので一男であるフェリックスの上なのか下なのかは不明だが、恐らく姉であろう。学歴はオックスフォード大学卒の文学士。

 さて、家系もここまで辿ると妙に生々しい。現存する人間まで紹介するべきではないのかもしれない。そういえば、思想家モーゼス・メンデルスゾーンウィキペディア家系図も存命子孫の一歩手前で止めている。ピーターとヒルデの息子フェリックスと娘クリスティンの素顔は、YouTubeや写真検索でいくらでも出て来る。その印象は・・・いや、コメントするのはやめておこう。

 話を『わが青春のマリアンヌ』に戻そう。作者のピーターが書いた原作のドイツ語の題名はSchmerzliches Arkadien(「苦悩のアルカディア」1932年)であり、フランス語版も小説はDouloureuse Arcadie(1935年)であるからドイツ語版の直訳だった。なお、アルカディアとは本来はギリシアペロポネソス半島の高原地帯であるが、比喩的に「素朴な理想郷」を意味する。理想郷がなにゆえ苦悩に満ちているかというと、その素朴さゆえ、その幼さゆえのことであろう。
 従って、青春の若者の素朴さゆえの苦悩が題材であるから、1955年のデュヴィヴィエ監督によるフランス映画では題名を『わが青春のマリアンヌ( Marianne de ma jeunesse)』としたこともうなずける。日本語訳の小説も、三者とも申し合わせたように『わが青春のマリアンヌ』としたのは、映画化にあやかって売らんがなの目論見であることは自明である。マリアンヌ(Marianne)というのは女主人公の名前。ただし、ドイツ語ではマリアンネと発音する。

 ミュンヘン生まれのピーターはナチスの台頭に呼応するかのようにドイツからウィーンに逃れ、更にパリに渡った。パリ時代に、この小説のフランス語訳の企画が生まれたのだが、結局、彼は1936年にロンドンに亡命して英国国籍を取得する。彼は、それまでに出生時の名前Peter von Mendelssohnからフランス風のPeter de Mendelssohnに改名していた。

 ここまで来ると、読者は『わが青春のマリアンヌ』の中身を知りたいだろう。映画ならばDVDがまれに手に入るがフランス語版が多い。また、小説ならドイツ語版は容易に手に入る。しかし、フランス語版と日本語版は多少難しいが入手不可能ではない。ということで、ネタばれは控えることにする。ご容赦あれ。

 (念のために申し上げたいこと二つ。日本語訳で「ピーター(Peter)」を「ペーター」としているがドイツ語ではそのように発音すると勘違いしているようだ。ドイツ語の発音もピーターである。また、町山智浩という人のこの映画案内をYouTubeで聞いたが間違いだらけだった。)