会津のみならず全国の長男(戸主)とその他の息子・娘の違いについて ある書簡から
<時代的背景>
江戸時代も安定期になると、とくに農村では家督の相続が宅地・耕作地・山林という土地の相続と密接に結びついてくる。土地は限られているから一子相続(多くは長子相続)が基本で余裕や開墾地があれば分家が可能だった。
昔は多産であっても無事成人できるのは30%程度なので相続する男子が残らないこともしばしばで、その際は娘に婿を取って当主(戸主)とした。子なしの夫婦が親類の子を養子に迎えることもあったから需要と供給は意外とバランスが取れ、供給過剰な二男、三男が溢れるなどと心配するほどではなかった。(死亡率の減った幕末、明治以降は、二男、三男は都市部へ。)
<墓地の形態>
江戸中期の初め頃から庶民も墓を建てるようになった。とくに土地に余裕のある農村部では自作農以上地主であれば広い墓地を確保して、その当時の当主が祖先として奥に墓石を建て、左右に次代の墓がコの字型に並んでいった。会津のXX家の墓も代々の墓を先代が建てる前はコの字型に墓石がずらっと並び、それぞれ一つの墓石には夫婦の名を書き揃えていた。全国どこでも一家の墓地に墓石が並び切らなくなると代々の墓一基に整理したようだ。また、土葬から火葬に移行したのもこの頃である。(昔の火葬はむしろ身分の高い者しかしなかった。)
つまり、代々の墓が一家の墓となって小さな骨壺を入れられるようになると、誰でも一家の墓に納めてもよくなったが、それまでは当主夫妻しか一家のコの字型の墓(本墓地)には入れなかったのである。現在の都市部で、代々の墓の骨壺の収納余裕があるにも拘わらず、当主一家の者しか入れないという風習が東京にさえまだある。長男は墓を引き継ぐが、二男、三男は新たに墓地を求めなければならない。
それでは、当主夫妻でない者は死んだらどうなるのか。共同の遺体塚に葬るか、幸いにして一家に余裕があって別墓地を持っていればそこに葬る。XX家にも最近まで別墓地があった。OO寺の南側一段低い墓地である。葬られても本墓地のような立派な墓石が建てられることは稀であり簡単な墓標になることが多い。夭逝した子供や成人しても未婚の者の墓となった。私の兄、ゼロ歳で死んだ△△の墓は、あの墓地にあり、小さな墓標が置かれているだけだった。
<家紋:余談として>
家紋は、あくまでも当主が引き継ぐもの。二男、三男のものではない。二男、三男が分家するなり、自力で一家を成した場合、本家当主が許可しない限り代々の家紋は使えないが、逆に新しい紋所を選んだり創出してもよい。XX家は基本的には「丸に木瓜」だが、私は子供の頃「菱に木瓜(角に木瓜)」があったことを記憶している。
まるで違うデザインを選ぶというよりは似たものを選ぶか変化させた。「豊臣の桐紋」も「松平(徳川)の葵紋」も微妙に違って各種ある。私は昔、自分の家紋を会津のXX家の「丸に木瓜」に似せて、織田信長の「織田木瓜」にしようと思ったことがあるが、とうとう今まで紋付裃はもちろん羽織袴さえ誂えずにきた。これからも作ることはないだろう(笑)。