『ヨハネの言行録』(あるいは『ヨハネ行伝』)概説

 はじめに
 たぶん日本語では「ヨハネの言行録」あるいは「ヨハネ行伝」との定訳で知られている新約聖書外典の一部を訳したので、簡単に紹介しておく。東京大学の教授であった大貫隆が若いときに訳した書名は「ヨハネ行伝」であり、これが従来は唯一の日本語訳であろう。このブログ記事を利用して日本語ウィキペディアの項目としたい方はご自由にどうぞ。その際、引用元としてこのブログを引いていただければ十分であり、私からの許可は不要。
 新約聖書外典
 新約聖書外典というのは、新約聖書(New Testament)正典(Canon)27書に加えられなかったすべての聖書様古代文書のことである。つまり、正典に対する外典であり、Canonに対するNon-canonical 文書である。このように、近年は外典を非正典(Non-canonical writings)と称することも多くなったが伝統的にはギリシア語で「重要でない、あいまいな、隠れた」を意味するApocryphaが使われる。本書は、そのような外典の一つである。
 通名としての書名
 本書の伝統的な通名としての書名はラテン語Acta Ioannisであり、ラテン語写本の断片も現存するが、原文はギリシア語である。現在は、世界最大の聖書学会SBL(Society of Biblical Literature)での公式名が英語でActs of Johnであり、略称はActs John(真ん中のofを取る)とするとスタイル・マニュアルで定められている。なお、外典であるからどちらもイタリックで表記する。
 著者と成立年代
 著者は、古代には新約聖書使徒言行録(使徒行伝)の6章5節に登場する七人の執事の一人プロコロ(プロコロス)と信じられていたこともあるが、現在は、確証はないものの、9世紀のコンスタンティノポリス大主教フォティオス(Photius, Photios)の証言によるとルチウス・ハリヌス〔カリヌス〕(Leucius Charinus)の作である。この人物はヨハネの弟子の一人とされており、フォティオスによれば「ペトロ」「パウロ」「アンデレ」「トマス」の各言行録の作者でもある。多くの学者が本書は二世紀後半の成立と見ている。
 印刷本文(写本から読み取って印刷した原文)
 本書の印刷されたギリシア語本文は、ドイツ生まれでドイツで教育を受けたがスイスやフランスで教えたマクシミリアン・ボネ(Maximilien Bonnetラテン語形Maximilianus Bonnet)編集のActa Apostolorum Apocrypha II-1がある。1898年初版だが1959年に最新版が出ている。私の底本はこの1959年版である。多くの現代語訳は、このボネのギリシア語本文による。先に紹介した大貫隆の「ヨハネ行伝」も同様と思うが未見なので訪日した際に図書館で確認しておく。
 現代語訳
 Wilhelm Schneemelcher (Hrg.): Neutestamentliche Apokryphen in deutscher Übersetzung, Bd II Apostolisches, Apokalypsen und Verwandtes, 6. Aufl., Tübingen: J.C.B. Mohr (Paul Siebeck), 1997.
 上記のドイツ語訳はもっとも充実した現代語訳であり、その1989年版の英語訳が下記の書籍だが印刷の不備が目に付く。
 R. McL. Wilson (ed.) New Testament Apocrypha, II Writings relating to the Apostles Apcalypses and Related Subjects, Rev. ed., Cambridge: James Clarke, 1992 (Paperback edition: Westminster John Knox Press, 2003)
 他に、英訳として優れているのは下記のもので著作権が消滅しているのでネット上で見つけることが可能だろう。
 M. R. James (trans.) The Apocryphal New Testament, Oxford: Clarendon Press, 1924.
 現代語訳の範囲
 18章から115章までである。1章から17章までは上記のボネのギリシア語版では断片と2種類の写本が印刷されている。従って、ギリシア語原文では断片部分を除けば読める。しかも、一部は2種類の写本を並行して印刷している。しかし、17章まではいずれも本来のものとは判断されていないので、現代語訳では18章から訳されている。もっとも18章以降も不完全な箇所は存在する。
 つまり1章から17章は後代の偽物。更に、87章から105章または94章から102章は後代の挿入の可能性が高い。従って、本来写本の順序は、18章−86章と106章−115章。また、87章−105章が挿入だとしても本来は36章と37章の間に来るという見方もある。
 本書の意義
 94章から102章および109章の内容から仮現説およびグノーシス主義の傾向がみられる。従って、787年の第2二ケア公会議で異端書と判断され焚書の対象となった。しかし、読みごたえがあったことと、異端的傾向が限定的なので複数の写本が現存している。また、本書は、その他の外典言行録(行伝)の嚆矢と目されていて、古代のエペソ周辺のキリスト教事情を反映する文書としての価値がある。
 おわりに
 内容全般に関する要約ないし概説が求められるかもしれないが、上記に示した大貫隆の日本語訳が刊行されていて、またネット上ではM. R. Jamesの英訳も、また必要があればボネのギリシア語本文も公開されているのであるから、今回はここまでの紹介でひとまず終了としたい。

『ヨハネの言行録』(あるいは『ヨハネ行伝』)について(予告)

これは新約聖書外典の一つですが、先日紹介したドルシアーナ物語の部分の日本語訳のギリシア語底本や、この書物の概要についてはいずれ記事にするつもりですがしばらくお待ちください。どうやら日本語のウィキペディアにも項目が立っていないので紹介する価値はあるかと思います。現代語訳もいくつか紹介するつもりです。英語のウィキペディアを参照なさる方はActs of Johnとしてください。ドイツ語、フランス語、イタリア語等でも項目はありますが、日本語ではないということです。
なお、日本語訳は大貫隆の訳が出版書としては唯一のようです。各種の版があるようですが残念ながら未見なので日本訪問の際にでも読んでみたいと思っていますが入手出来たらそれに越したことはありません。もし、お持ちの方がいらっしゃったら、私の訳と比べてご覧いただけるでしょう。大貫氏の訳は『ヨハネ行伝』となっていますから、その書名で検索してみてください。

『ヨハネの言行録』(あるいは『ヨハネ行伝』)62章−86章「ドルシアーナの物語」(日本語訳)

本書は新約聖書外典です。本書の概説や底本等については後日。ともかく楽しんでお読みください。古代の本ですから、現代的には冗長な部分もあります。飛ばして読んでいただいて結構です。

62 この後、我々はエペソにやって来た。すると、今やっとヨハネが到着したと知ったその地の信仰の友らは、ヨハネの逗留しているアンドロニコスの家に急いで向かい、ヨハネの脚を抱え、彼の両手を自分たちの顏に押し当ててキスをした。また、そうできなかった者は、自分たちの腕を伸ばして、ヨハネの衣服になんとかして触り、その触った自分の手にキスをした。

63 さて、信者らの間に大いなる慈しみの思いとこの上ない喜びが満ちているときに、悪魔の使いのような男が、アンドロニコスの妻であることを承知の上で、ドルシアーナに横恋慕した。それで幾人かは、その男に言った。
 「彼女をものにするなど不可能ですよ。そもそも清純を保つために夫とさえ共に寝ることは長い間なかったのですから。ひょっとしたらあなただけが、かつては神を恐れなかったのに今は恐れているアンドロニコスが、『元々あなたを妻としていた私か、〔妻となった〕あなたのどちらかが〔清純を汚したので〕死ななければならない』と言って、彼女を墓に閉じ込めたことを知らないのですね。
 彼女は自分が死ぬことを選び、彼の莫大な資産を共有しようとはしなかったのです。そういう忌まわしいことをするよりも殺されることを選びました。彼女は、主なる神と夫の二者に交わることをよしとせず、むしろ夫にも彼女と同じ思いになるように説得していたというのに、彼女の愛人になろうなどと願っているあなたを受け入れるはずはないでしょう。
 そんな心穏やかならぬ狂気から離れなさい。成就しようのないことは諦めなさい。ご自分の企みを実現しようと、あなたはなおも欲情を燃え立たせるつもりなのですか。」

64 しかし、これらの言葉をもってしても、その男のごく親しい友人でさえ説得することはできず、あろうことか、男は厚かましくも伝言を彼女に送った。しかし結局は、彼は人々による非難を恐れて、彼女への試みは放棄したので、絶望して人生を過ごすことになった。
 〔伝言のあった〕二日の後、ドルシアーナは心の重荷から熱を出して寝たきりになって言った。
 「二度と故郷の町には戻りません。信仰を教えられていない男のつまずきの石にはなりたくないからです。神の言葉に満ちた男であれば、あのような色欲の極みに至ることもなかったでしょうに。それゆえ、主よ、無知の魂の傷の責任の一端は私にありますから、どうかこの世の縄目から解き放って、いますぐ御許にお召しください。」
 かくして、事情が完全には飲み込めないでいたヨハネがそこに立ち会ったものの、ドルシアーナは、喜ばしく感じるものは何もなくなり、その男に対する精神的な傷ゆえの落胆でこの世を去った。

65 しかし、アンドロニコスは、一人密かに心の中で悲しむばかりか、人前でも涙を流すので、ヨハネは再々彼の側に行って、「ドルシアーナは、このよこしまな世から出て行き、もっと良い希望の地に旅立ったのです。」と慰めた。すると、アンドロニコスは「はい、そのことは信じていますよ、ヨハネ先生。神への信頼を揺るがすことはありません。とりわけ、彼女がこの世から清純なままで去ったことは確信しています。」と応えた。

66 〔埋葬のために〕彼女が運び出される際に、ヨハネはアンドロニコスの体を支えた。この頃になってようやく〔あの男との〕事情を詳しく知ったヨハネは、アンドロニコス以上に嘆き悲しんだ。しかし、彼は悪魔の陰謀に気づいて、心落ち着け、しばらくの間静かに座っていた。それから、信仰の友らも故人への弔辞を聞くために心備えしたので、彼は語りだした。

67 「航海において船長は、船員や船そのものと一緒に、平穏で波風に守られた港に着いたとき、はじめて彼は安全だと宣言するでしょう。また、大地に種を撒き、育て、守るために長い間労した農場主は、元の種を幾倍にも増やして収穫し、倉に積み重ねてはじめて安心するのです。競技場で競争に参加する者は、賞を持ち帰ってはじめて勝ったと言えます。拳闘の試合に出た者は、王冠を得てはじめて自慢します。だから、そのような競技や技量は皆、終りまで失敗することなく、約束した通りであることを証明しなければならないのです。

68 私が同じように考えているのは、我々がそれぞれ守っている信仰の場合です。それが本物かどうかは、人生の終わりの時まで変わらず持続するかどうかで決定されるのです。なぜなら、幾多の妨げが襲いかかり、人間の思いに迷いを生じさせるからです。漠然とした不安、子供のこと、親のこと、世間の評判、貧困、甘い言葉、若さ、美しさ、見栄、貪欲、富み、怒り、憶測、怠惰、妬み、嫉妬、疎外感、暴力、愛欲、裏切り、金銭、見せかけ、これらは皆、人生の中に潜む障害です。
 まさに、穏やかな船路に漕ぎ出した船長が、向かい風の発生があったり静かな海からでも大嵐が巻き起こったりすることで行く手を阻まれるようなものであり、折悪しく冷害や干ばつや地中からの虫の被害をこうむる農場主であり、すんでのところで負けてしまう競技者であり、寸足らずの出来損ないを作ってしまう工芸家でもあります。

69 しかし、それらすべての人にも増して、信仰の人は、おのれの人生の終わりをよく考え、どのような様子で訪れるのかを理解しておく必要があるでしょう。ゆっくりと、冷静に、また何の心の妨げもないものなのか、あるいは心騒ぎ、世俗的な物事に気を取られ、欲望に固く捕えられているものなのか、ということです。
 そういうわけですから、我々が肉体の恵みを理解して賛美できるのは、肉体すべてを脱がされたときであり、将軍の偉大さを知るのは、戦いのすべての約束が成就されたときであって、医者の卓越さがわかるのは、すべての病が癒されたときなのです。
 同様に、完全な信仰と神を受け入れた魂というのは、約束が寸分違わずに遂行されて初めて証明されるものですから、始まりがよくても、この世のあらゆるものに捕らわれて滑り落ちていくなら、その魂を讃えることはできません。
 同じことですが、いい加減な魂は、多少の努力はしてみたとて、単なる一時的なものに過ぎないのであれば救われませんから、永遠なるものではなく、この世的なものを望んではならないし、恥でしかないものを尊敬してもならないし、悪魔に誓いを立ててはならないし、蛇を家に招いてはならないし、正しいことを笑いものにしてはならないし、神のために働く者を苦しめたりはずかしめてはならないし、行いが伴わず口先だけであってはならないのです。
 むしろ、汚らわしい享楽に骨抜きになることなく、怠惰に道を委ねることもなく、金銭欲に誘惑されることもなく、肉体の勢いや怒りに自分自身が裏切られることのないように、節操を守りなさい。」

70 このように、ヨハネが信者たちに、この世に拘泥することのないように教え、語り続けているうちに、ドルシアーナに横恋慕していた男は、激しい欲望に駆られ、さまざまな姿をまとった悪魔に感化されて、巨額の金で欲張りなアンドロニコスの召使いを買収した。召使は、ドルシアーナが埋葬された墓を暴くと男を墓場に残して、男が彼女の死体に禁断の行為ができるようにするつもりだった。
 彼女が生きている間は遂げることのできなかった行為を、死んだ後の彼女の体を使ってでもしてみたいと、男はまだ思い続けていて、次のようにつぶやいた。「生きていたならば、あなたは私と一つになることに同意しなかったかもしれない。しかし、今は死んでいるのだから、私はこれからあなたの肉体をはずかしめるつもりだ。」
 このような企みで、悪い召使いの手引きで忌まわしい行為の段取りをつけると、男は召使いと一緒に墓に突入し、玄室の扉を開けるやいなや、死体から死に装束をはがし始めて言った。
 「かわいそうなドルシアーナ、いったい何んの得があったのか。生きているうちにすることができなかったのか。喜んでこうしていてくれたら、あなたを苦しめることもなかったのに。」

71 下着だけが彼女の裸体に残り、あわや、すんでのところでというときに、どこからともなく一匹の毒蛇が現れて、まず召使いを一噛みで殺した。しかし、蛇は更にこの男を殺すことはなく、脚に巻き付いて恐ろしい勢いでシューシューと威嚇した。男が倒れると、蛇はその体にとぐろを巻いて座った。

72 翌日の明け方、ヨハネはアンドロニコスや信者たちと共に、墓場にやって来た。ドルシアーナの死から三日目のことである。その墓前で聖餐を行う予定だった。実は、ここに来るに際して、関係者が探し回っても、初め墓の鍵が見当たらなかった。すると、ヨハネはアンドロニコスに言った。
 「鍵を失くしたことは良かったのかもしれないよ。なぜなら、ドルシアーナは墓の中にはいないだろう。だから、このまま鍵なしで墓に急ぎましょう。あなたは、不用意に鍵を失くしたのではないかもしれませんよ。ちょうど、主が他の多くのことを我々に備えていてくださるように、墓の入口はすでに開いていることでしょう。」

73 私たちが墓場に着いて、ヨハネが命じると墓の入口が開いた。なんと、ドルシアーナの墓の傍らに、微笑んでいる見栄えのいい若者が立っているではないか。ヨハネは若者を見るなり叫んで言った。
 「おお、私たちより早く、あなたも来ていたのですか、みめうるわしい若者よ。いかなる事情でここにいらっしゃったのですか。」
 すると、ヨハネには、若者がこう言うのが聞こえた。
 「ドルシアーナのためです。今、彼女を生き返らせてあげましょう。しかし、彼女の墓室をすぐに探しあてたので、〔ついでながら〕彼女の墓の側で死んでいた男のためでもあります。」
 美しい若者はヨハネにそう言い終えると、我々が見ている前で天に昇って行った。それから、墓の反対側をヨハネが振り返って見ると、エペソの町の有力者であるカリマコスという若者とアンドロニコスの召使いであるフォーツナトスという男が死んで横たわっていた。カリマコスの上には大きな蛇が寝ている。二人の姿を見たヨハネは、驚愕して立ち尽くし、仲間の信者たちに言った。
 「この光景の意味するものは何だ。ここで何が起きたのかを、主はなにゆえ私にお示しくださらないのか。今まで私をないがしろになさったことは一度もないのに。」

74 また、アンドロニコスは、二人が死んで横たわっているのを見るなり、急いでドルシアーナの墓に降りて行った。下着だけになったドルシアーナを発見すると、彼はヨハネに言った。
 「祝福された神のしもべ、ヨハネ様、何が起こったのか私はわかりました。この男カリマコスは、私の信仰の姉であり妹〔である妻〕に恋していました。ところが、何度試みても彼女を自分のものにすることが叶わないので、この呪われた私の召使いを多額の金銭で買収したのです。
 恐らく、今我々が目にしているように、かねてからの痛ましい企みを、この召使いの手引きで実行しようとしたに違いありません。実際、カリマコスという男は、多くの人に『たとえ、彼女が生きている間に私と添い遂げてくれなくても、死んだ彼女の体を犯すつもりでいる。』と公言していました。
 だから、ヨハネ様、あの凛々しいお方がドルシアーナの亡骸が汚されないように取り計らってくださったのです。悪だくみを謀った二人がここに死んで横たわっているのはそのためです。そうであれば、あのお方がヨハネ様におっしゃったことは、『ドルシアーナを生き返らせよ!』という予言だったのではないでしょうか。
 彼女は、男のつまずきの石になってしまったのではないかと心配し、深い悲しみのために命を失いました。あのお方が言っていたそこに倒れている二人の男の一人が、彼女に心迷わされた男であると信じます。それゆえ、ヨハネ様は、彼をも生き返らせることを命じられたことになるでしょう。もう一人の男については、救う価値のないことを知っています。
 今、ヨハネ様にお願い申し上げます。〔ドルシアーナよりも先に〕まず、このカリマコスを生き返らせてください。彼こそが、ここで何があったのかを、我々に明らかにするはずです。」

75 そこでヨハネは、男の死体に目をやると、その上の毒蛇に向かって「その男から離れなさい。彼はイエス・キリストの僕となるのだから。」と話しかけた。それから男の前に立ち、このような祈りを捧げた。
 「おお神よ、御名が我々によって正当に崇められるお方。神よ、あらゆる危害を及ぼす力を征服してくださるお方。神よ、御心を成就し、我らにいつも耳を傾けてくださるお方。どうか、お恵みを、この〔死んで横たわっている〕若者に与えてください。そして、この男を用いた神の摂理があるのでしたら、どうか彼の命のよみがえりとともに我らにお示しください。」
 祈りが終わると同時に若者は立ち上がった。しかし、一刻の間、彼は沈黙したままだった。

76 しかし、彼がようやく正常な意識を取り戻すと、ヨハネは、彼が墓室に入っていた次第について問いただした。アンドロニコスが話していたように、彼はドルシアーナに恋い焦がれていたということだった。そこで更にヨハネは詰問した。
 「お前は、完全に清純なご御遺体をはずかしめるという忌まわしい企てに成功したのかね。」
 それに対して男は答えた。
 「どうして、思いを遂げることなどできましょうか。そのとき、この恐ろしい生き物がフォーツナトスに襲いかかり、私の目の前で一噛みで殺したのですから。実際、私はこんなたいそれた気違いじみたことはとうに諦めていたのに、この召使いが再び狂気に火をつけたのです。しかし、彼が目の前で死んだことは、私を恐怖で押し止めることになりました。その後の状況は、あなたが私を生き返らせる前の状態だったことになります。
 更に、私の企てを押し止めたり、私が死ぬことになったことよりも、もっと驚くべきことを申し上げます。私の魂が狂気に走り、制御できない病が身をさいなんでいたとき、つまり、彼女の着ている死に装束をほぼ脱がしかけ、脱がしたものをいったん墓の外に持ち出して、ご覧の通りに並べてから、悪辣な作業のために墓室に再び戻ると、若いハンサムな男が下着姿の彼女の死体を自分の外套で覆い隠しているのが見えました。しかも、彼の顏から出る光の束が、彼女の顏を照らしていたのです。
 それから、その美しい若者はまた、私に話しかけました。『カリマコス、生きるために死になさい。』実際に、その声の通りになりました。不信仰で無法者で神をも恐れない男は死にました。そして、あなた様の手で生き返らせてもらったのです。どうぞ、私に真理とは何かお示しください。そうすれば、私も信心深く神を恐れる者となりましょう。」

77 かくしてヨハネは、男の救いに関する今まで語られた全光景を思い描いて、大きな喜びに満たされて言った。
 「ああ、何という偉大なお力でしょう、イエス・キリスト様。私は今まで無知でした。今、あなたの素晴らしい慈悲の心と限りない寛容さに驚いています。おお、この世という束縛に舞い降りた偉大なるお力! おお、奴隷の身に訪れた筆舌に尽くしがたい自由! おお、幽閉の地に訪れた言いようのない気高さ! 
 おお、霊妙な輝きよ、あなたは我らの擁護者です! 私たちは不名誉なことから命のない枠にはめられ、またこの男のようにあらゆる面で放埓のそしりをどこまで行っても免れないのに、それでもなお、荒れ狂う悪魔のくつわをとらえて、真っ当な感覚を失った男に憐れみを覚えてくださり、我らの唯一の王でいてくださる!
 血で汚れた男の救世主、埋葬された男の矯正者、財産を使い果たした男をも退けることなく、悔い改めれば御顔を背けることもないお方! 自暴自棄の男にも、憐れみと思いやりを示される父なる神! 聖なるイエスよ、我らはあなに栄光を帰し、あなたを賛美し、崇め、あなたの偉大な良きものと広い心に感謝します。あらゆる陰謀を凌駕する力が、今もまた世々永遠に、あなたにあらんことを、アーメン。」

78 ヨハネが、そのように祈り、カリマコスを抱き寄せ、キスしてから言った。
 「栄光は我らが神に。我が子よ、イエス・キリストはあなたを憐れんでくださった。また、御力を崇める者として私を召してくださったように、あなたをも召してくださった。それは、あなたの狂気と狂乱を鎮め、価値ある者として、神の安らぎと命の再生に招くためだったのです。」

79 しかし、アンドロニコスがカリマコスを死からよみがえらせたのを見ると、他の信者らと一緒になって、ドルシアーナも同様に生き返らせてくれるように、ヨハネに懇願して言った。
 「ヨハネ様、ドルシアーナを生き返らせてください。そして、しばしの間でもこの世で幸せに暮らさせてください。その人生こそ、誘惑の元となってはいけないと心配して、このカリマコスに関わる苦悩ゆえに断念した暮らしなのです。その上で、主の御心であれば、再び主の許へ旅立つのも致し方ありません。」
 ヨハネはすぐさま墓室に向かい、ドルシアーナの手を取って祈った。
 「神のみにお願い申し上げます。これ以上ない偉大な方で、永遠なる方に。あらゆる国の王権が従いあらゆる権威がひざまずくお方に。このお方の前では、いかなる高慢も謙虚となって静まり、いかなる不遜も勢いを弱めて沈黙を守ります。
 悪魔も聞き従い戦慄するお方に。あなたにあって、生きとし生けるものすべてが己をわきまえて則を超えません。あなたを、この世の体と血が知りうることはありません。御名が崇められますように。
 どうかドルシアーナを生き返らせてください。そうして、カリマコスが、あなたへの信仰において、ますます強められますように。人の力ではなしえない不可能なことをも備えてくださるお方、あなただけが救いもよみがえりも可能とされます。
 今、ドルシアーナは心安らかです。既に、あの若者は心入れ替えてあなたに従っているのですから、もはやあなたの御許に行くことをことさら急がなければならない妨げは少しもありません。」

80 このように祈り終えると、ヨハネは宣言した。
 「ドルシアーナ、よみがえりなさい!」 
 たちどころに彼女は起き上がり、墓から出て来た。下着だけの自分の姿に気づくや、何が起こったのか理解できず、ただ困惑していた。ヨハネが深くこうべを垂れ、カリマコスが上ずった声で泣き、涙ながらに神を讃えているうちに、アンドロニコスからすべての真実を知らされたドルシアーナも、一緒になって喜び、神を賛美した。

81 彼女が身づくろいを終えたとき、召使いのフォーツナトスが死んで横たわっていることに気づいた。彼女はヨハネに懇願して言った。
 「父なるヨハネ様、この男も生き返らせていただけないでしょうか。この男は、私を裏切るためにだけ生きてしまったのですから。」
 この言葉をカリマコスが聞いて彼女に言った。
 「いけません、ドルシアーナ、お願いだからやめてください。というのは、私が聞いた〔『生きるために死になさい』〕という声は、彼を考慮したことではなかったのです。また、よみがえらせてくださると言われたのはあなただけです。それを目の当たりにして私は信じたのです。
 もし彼がよい人であったのなら、疑いなく神は彼をも憐れみ、祝福されたヨハネ様の力で生き返らせたはずです。この召使いが悪い結末で終わることはわかっていたのです。」
 すると、ヨハネカリマコスに言った。
 「我が子よ、悪をもって悪に報いることを私たちは学んでこなかった。だから、神も同様に、我々がどれだけ悪を行い、神に対して何一つよいことを行わなかったとしても、罰をお与えなさることはなく、ただ悔い改めを望んでいらっしゃるのです。たとえ、御名を忘れていても、見捨てることなく、慈しんでくださいます。
 あろうことか、神を罵ったとしても、罪に定めることなく、憐れんでくださいます。我々が不信仰に陥ったときも、少しも恨んだりはなさいません。我々が信仰の友をたまたま迫害したとしても、報復なさることはありません。たとえ、忌まわしく恐ろしい行いをしてしまっても、神は我々をはねつけられません。ただ、悔い改めに導いてくださり、悪事から遠ざけてくださり、御許へ来るようにいざなってくださいます。
 だから、我が子、カリマコスよ、あなたも神に召されたのです。あなたの過去の悪行に拘泥することなく、あなた自身も慈しみをもって神に仕えるように、神の僕としてお造りになったのですよ。私がフォーツナトスを生き返らせるのをあなたがたとえ阻止したとしても、その使命はドルシアーナが引き継ぎます。」

82 ドルシアーナの動きは素早かった。魂が踊り、心からの喜びのうちに、フォーツナトスの遺体に駆け寄り、祈った。
 「おお、とこしえの神よ、イエス・キリスト、真実の神。この私に不思議と印を賜りあなたの御名を分かち合う者としてくださったお方。お姿をさまざまな形で現わしてくださり、さまざまな方法で恵みをくださったお方。かつて私の配偶者アンドロニコスがふるった暴力から大いなる慈しみで守ってくださり、結局は信仰の友としてアンドロニコスを神の僕に造り替えてくださったお方。
 あなたのはしためである私を今日まで清いままに保ち、死んでいた私を、あなたの働き人ヨハネ様によってよみがえらせたお方。私が生き返ったときに、あの男がつまずきの石につまずかない者として変えられていることを示してくださったお方。私に完全な安らぎをくださり、密かな狂気から解放してくださったお方。私はあなたを愛し信じます。
 イエス・キリスト様、あなたにお願い申し上げます。どうぞ、このドルシアーナの頼みを拒まないでください。どうか、もう一度、このフォーツナトスに命を与えてください。このままでは、私の裏切者としてこの世を生きただけになってしまいます。」

83 彼女は、死んでいる男の手を取ると、命じた。
 「たとえ、あなたが神のはしためである私の最悪の敵であったとしても、我らが主、イエス・キリストの御名によって、フォーツナトスよ、起きよ!」
 フォーツナトスも生き返ると、墓場にいるヨハネの姿を見た。アンドロニコスは、今や死からよみがえったドルシアーナと共にいた。信者となったカリマコスは、他の信者たちと神を讃えていた。すると、フォーツナトスは叫んだ。
 「おお、このような人々の力の結末はどうなるのか! 私はこのように生き返りたくなどなかった。この人たちを見なくてもいいように、死んだままでいたい。」
 この叫びと共に、彼は墓場から走って逃げた。

84 するとヨハネは、フォーツナトスの魂が変わらないことを見て取ると、言った。
 「おお、より良きことを求めえない性質(さが)よ。頑なに悪辣な地に住める魂の泉よ。漆黒の暗闇に潜む汚濁の真髄よ。己のうち籠って歓喜する死よ。実のみのらぬ火だるまの樹よ。果実の代わりに炭を生やす樹よ。狂気の沙汰と連れ添う不信仰の隣人よ。お前はお前が何者であるかをさらして、常にお前の子供と共に罪に定められる運命だ。お前はより良きものをどのように賛美してよいかを知らない。それは、そのようなものを得たことがないからである。
 それゆえ、お前の生き方がそうであるように、実も根も性質も腐っている。それゆえお前は除かれる。主に望みを置く人々から、信仰の思いから、その心から、その魂から、その体から、その行いから、その命から、その交わりから、その生き方から、その仕事から、その弁護から、復活の安らぎから、その香しさの分け前から、その信仰から、その祈りから、その聖なる洗礼から、その聖餐から、その体の糧から、その飲み物から、その衣から、その愛餐の交わりから、その世話から、その禁欲から、その正義から、その他これらのすべてから、この上ない邪悪な悪魔よ、神に逆らう者よ、我らの神イエス・キリストは、お前やお前に付き従って同じ行いをする者を取り除き絶やすであろう。」

85 このように宣言してから、ヨハネはパンを取り、墓室に入って聖餐のためにそのパンを裂き、祈りを捧げた。
 「あなたの御名を崇めます。我らを過ちと冷酷な欺瞞から正しい道に向きを変えてくださったお方を。今、眼前で行われたことを、我らにお示しくださった方の栄光を讃えます。さまざまな方法でお示しくださったご慈愛を、証する者となるつもりです。あなたの恵み深い御名を賛美しします。おお、主よ、あなたはあなた自身の手で、罪に定められるべきものは罪に定めます。
 しかし、感謝なるかな、主なるイエス・キリスト様、あなたは我らをあなたの変わらぬお恵みで説き聞かせてくださいました。我らを救うべき者として、あなたが必要としてくださったことに感謝します。また、このような信じる心をお与えくださったことに感謝します。あなたこそ、今も明日も世々永遠に生きている神です。我らはその僕(しもべ)として、良き心をもって集い、あなたを、聖なるお方を賛美申し上げます。」

86 こう祈り終え、神を賛美してから、ヨハネは信者ら皆に主の聖餐を配り終えると、墓場を後にした。それからアンドロニコスの家に入り、信者らに告げた。
 「我が信仰の兄弟たち、ある私の内なる精神が予言しています。フォーツナトスは、毒蛇に噛まれて黒くなり死ななければなりません。しかし、この予言が正しいのかどうか、誰か急いで行って確かめてほしい。」
 そこで、若者の一人が急いで行ってみると、果たして体が膨れ上がり、黒味が全身に回って心臓に達している彼を見つけた。若者は帰ってくると、ヨハネに、彼は三時間前に死んだと伝えた。すると、ヨハネが言った。
 「悪魔よ、お前の息子だ。」
 

『わが青春のマリアンヌ』と二人のモーゼス・メンデルスゾーン

 今どきの人は『わが青春のマリアンヌ』と聞いてもわからないだろう。これは日本で公開されたときのジュリアン・デュヴィヴィエ監督のフランス映画の題名(1955年)であり、同じ頃、同映画の原作(原文はドイツ語)を日本語で出版したときの題名でもある。
 日本語版は訳者と出版社が異なるものが3種出回ったが、ドイツ語版原作からなのか、フランス語訳からの重訳なのかよくわからないものもある。それらは、大野俊一訳(雲井書店、1955年)、小松太郎訳(早川書房、1955年)、岡田真吉訳(三笠書房、1964年)である。そもそも、同時に翻訳権を得たことさえ、現在の出版常識では理解できない。実は、ドイツ語の原作の題名は『わが青春のマリアンヌ』とは訳せないのだが、そのことについては後述する。
 原作者はピーター・ドゥ・メンデルスゾーン(Peter de Mendelssohn)というドイツ系英国人作家である。1908年6月1日に南独のミュンヘンユダヤ系ドイツ人として生まれたが、ナチス台頭の頃にイギリスに渡り、英国に帰化したため英国籍を持っていた。しかし、1970年に生地ミュンヘンに戻り、晩年はそこで暮らして1982年8月10日に76歳で生涯を終え、同地に埋葬されている。墓所は Bogenhausener Friedhof。

 さて、二人のモーゼス・メンデルスゾーンだが、同姓同名の、しかもほぼ同時期の別人の話である。普通、Moses Mendelssohnと言われて思い浮かべるのは18世紀の著名なユダヤ人思想家(1729−1786年)のことだろう。
 彼は市井の論客で正規の学歴はなかったし、職業はベルリン市内の繊維工場主だった。しかし、非凡の才能があり、多少の個人的指導は仰いだようであるが、研究に必要な自然科学や諸言語の習得もほぼ独学だった。思想史的位置づけでは、ユダヤ教啓蒙主義者であり、現代の改革派ユダヤ教思想の嚆矢とも言える。その自由主義的傾向のためなのか、6人の子供の内4人はユダヤ教を捨ててキリスト教に改宗している。
 彼の名声がドイツ語圏文化人の間で高まったのは、1763年にベルリン王立科学アカデミー(Königlichhen Akademie der Wissenschaften in Berlin)の懸賞論文で首席になったことだった。論文の題名は「形而上学的な科学の根拠に関する論考(Abbhandlung über die Evidenz in metaphysischhen Wissenschaften)」。この時、次席に甘んじたのは、イマヌエル・カントだった。カントはまだ批判哲学を書く前ではあったが、すでに同アカデミーの常連投稿者であり、メンデルスゾーンより年長の職業的学者(大学人)であった。
 このメンデルスゾーンは、ゴットホルト・エフライム・レッシングの劇作『賢者ナタン(Nathan der Weise)』のモデルであり、レッシングの親友でもある。また、ドイツロマン派作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父であることでも有名だ。フェリックスはソロモンの二男で銀行家アブラハムの息子である。なお、フェリックスの姉ナニーも当時著名な音楽家だった。しかし、彼らだけではない。このメンデルスゾーンの家系が実に華やかであることは、ウィキペディアのMendelssohn Family(英)またはMendelssohn (Familie)(独)で検索すれば一望できる。

 『わが青春のマリアンヌ』の原作者ピーターの来歴を調べていた際、彼の高祖父に当たる人物の名が、上記の有名なモーゼス・メンデルスゾーンと同姓同名であり、しかもほぼ同時期であった。私はいささか驚き、嬉しく思ったがすぐに別人とわかってしまった。しかし、調べていくうちに、このピーターの高祖父からピーター本人に至る家族も、有名なメンデルスゾーン家に見劣りしない家系であることが判明したので、書きつけておく価値はあると思った。以下に簡単に紹介する。資料は極めて安直ながら、ドイツ語版ウィキペディアから始まり、米国の家系図ネットワーク(Randy Schoenberg's GENi)等を利用したが、煩雑になるのでいちいち注記しない。
 ピーターの高祖父であるモーゼス・メンデルスゾーン(1778−1848年)は、父の名前がレヴィ・メンデル(Levi Mendel、生没年未詳)であり、父の代まではドイツ語で「メンデルの子」という意味のMendelssohn(ユダヤ式ならben Mendel)という姓を名乗っていなかった。モーゼスは北海に近い北ドイツのJever(地元の発音はイェーファ、標準ドイツ語ではイェーヴァ)のユダヤ系ドイツ人の家系で、商人でありながらも教育者であり藝術の素養もあった。
 彼にソロモン・メンデルスゾーン(Solomon、1813−1892年)という息子がいて、これがピーターの曽祖父になる。曽祖父ソロモンは北ドイツで体育学の理論家で教育家。数冊の著書がある。また、彼の弟ヨーゼフ(Joseph、1817−1856年)は、文筆家だった。彼らが正式の大学教育を受けていたかどうかはわからないが、少なくとも中等教育以上の学識はあった。
 しかし、ソロモンの息子、すなわちピーターの祖父であるルートヴィヒ・フォン・メンデルスゾーン(Ludwig von Mendelssohn、1852−1896年)となると、ゲッティンゲン大学ライプツィヒ大学で学び、後者の大学で、古典学者フリードリヒ・リッチル(Friedrich Ritschl、1806−1876年)の許で教授資格(Habilitation、1874年)を得ている。初めライプツィヒ大学の私講師(Privadozent)をしていたが、バルト三国の一つエストニアの名門である当時のドルパット大学(Universität Dorpat、現在のUniversität Tartu)教授に納まった。当時、バルト三国ユダヤ人の多い国だった。
 このルートヴィヒが初めて貴族階級を表わす「von」を姓の前に置いた。また、彼は当時ユダヤ人が正規の大学教授に就任する際の習慣で、ユダヤ教からキリスト教ルター派)に改宗している。自らも貴族階級となり、またエストニアで大学に職を得たのは、正確な前後関係は不明だが、恐らくエストニアでの大地主の貴族の娘アレクサンドリーネ・フォン・クラマー(Alexandrine von Cramer、1849−1923年)の援助があったものと思われる。
 彼女はピーターの祖母に当たるが、祖父ルートヴィヒより年上にも拘わらず長命で、ピーターが高等学校に通う頃まで生きていた。また、彼女の資産のお蔭で子供たちや孫まで不自由なく暮らせたという証言もある。この祖父母の二番目の息子がピーターの父ゲオルク・フォン・メンデルスゾーン(Georg von Mendelssohn、1886−1955年)であり、職業は金細工などの工芸家だった。ゲオルクには、ピーターの伯父伯母叔父に当たる兄姉弟がそれぞれ一人いて、いずれも文筆や翻訳を生業としていた。
 ピーターの母の名前はガータ・マリア・メタ・クラソン(Gerta Maria Meta Clason、生年未詳)だが、父ゲオルクと離婚後、再婚してアメリカに渡り1961年に同国で没した。再婚相手との子はなく、子供たちはすべてゲオルクとの間にできた子で、男三人女一人であった。その中で、ピーターは長男で長子である。ピーターの三人の兄弟は次の通り。すぐ下の弟と妹は二卵性双生児だった。なお、父ゲオルクは工芸家エヴァ・フォン・シュトゥセル(Eva von Stössel、生没年未詳)と再婚し娘エヴァ・マリア・ウィルソン(Eva-Maria Wilson、生没年未詳)をもうけているので、ピーターは腹違いの末の妹がいたことになる。
 すぐ下の弟トーマス(Thomas、1910−1945年)はトルコに渡りそこで没した。妹マーゴット(Margot、1910−1982年)は、母親同様にアメリカに渡って生活した。末の弟フェリックス(Felix、1918−2008年)はローザンヌ大学で医学を修め、精神科医心理療法家になった。彼はスイスから一時アメリカに渡ったが、兄ピーターが1970年から暮らしていたミュンヘンに戻り、1972年以降、そこで医業をしながら2008年に生涯を閉じた。

 ここで、ピーターの妻にも触れておく。彼女の名前はヒルデ・シュピール(Hilde Spiel、1911−1990年)といい、ウィーンのユダヤ人素封家の娘でウィーン大学で1935年に哲学でPh.D.の学位を得ている。彼女の博士論文の題は「映画の表現理論の試み(Versuch einer Darstellungstheorie des Films)であり、同大学に現存するのを確認した。1936年にピーターと同時に渡英してロンドンで結婚した。彼女はドイツ語で著作し、 Grace Hanshaw あるいは Jean Lenoirという筆名も使っている。
 しかし、彼女はピーターとの間に一男一女をもうけるが1963年には別居して彼の許を離れ、ロンドンから故郷のウィーンに帰国してしまった。1970年にピーターがドイツのミュンヘンに帰国した年には正式に離婚している。その後、彼女は1972年に再婚し(夫はBBC職員だったHans Flesch von Brunningen)1990年に没するまでウィーンで過ごし、両親と先に死んだこの二度目の夫ハンスとともに同地で眠っている。墓所は同市のユダヤ人墓地Bad Ischlであり、墓碑銘での名はHilde Maria Flesch-Brunningenとなっている。

 彼らの一男一女についても紹介しておく。二人とも存命である。息子の名前はピーターの末の弟である精神科医の名前Felix von Mendelssohnと同じフェリックス(Felix de Mendelssohn、1944年ロンドン生まれ)だが、高名な叔父にあやかるためにAnthonyという名前から改名した可能性もある(ドイツ国図書館人名資料参照、また叔父はvonであるが、この息子は父と同じde であることに注意)。
 息子フェリックスは精神分析と集団心理の専門家ということでベルリンで開業する傍ら、2005年にウィーンに新設された私立大学ジークムント・フロイト大学(SFU)の講師となっているが、不思議なことにどの履歴書にも学歴と学位が記入されていない。なお、米国の女流哲学者で社会運動家のスーザン・ナイマン(Susan Neiman、1955年アトランタ生まれ、ハーヴァード大学Ph.D.)と婚姻関係にあるという(ドイツ語版ウィキペディアのフェリックスの項目にはそのように記されているが、ナイマンの項目には英独双方の版に記述がない)。
 娘の名前はクリスティン・シャトルワース(Christine Shuttleworth)。現在もロンドンに在住する独-英の翻訳家で母親の著作の英語訳もしている。本人が年齢をFacebook等で非公開としているので一男であるフェリックスの上なのか下なのかは不明だが、恐らく姉であろう。学歴はオックスフォード大学卒の文学士。

 さて、家系もここまで辿ると妙に生々しい。現存する人間まで紹介するべきではないのかもしれない。そういえば、思想家モーゼス・メンデルスゾーンウィキペディア家系図も存命子孫の一歩手前で止めている。ピーターとヒルデの息子フェリックスと娘クリスティンの素顔は、YouTubeや写真検索でいくらでも出て来る。その印象は・・・いや、コメントするのはやめておこう。

 話を『わが青春のマリアンヌ』に戻そう。作者のピーターが書いた原作のドイツ語の題名はSchmerzliches Arkadien(「苦悩のアルカディア」1932年)であり、フランス語版も小説はDouloureuse Arcadie(1935年)であるからドイツ語版の直訳だった。なお、アルカディアとは本来はギリシアペロポネソス半島の高原地帯であるが、比喩的に「素朴な理想郷」を意味する。理想郷がなにゆえ苦悩に満ちているかというと、その素朴さゆえ、その幼さゆえのことであろう。
 従って、青春の若者の素朴さゆえの苦悩が題材であるから、1955年のデュヴィヴィエ監督によるフランス映画では題名を『わが青春のマリアンヌ( Marianne de ma jeunesse)』としたこともうなずける。日本語訳の小説も、三者とも申し合わせたように『わが青春のマリアンヌ』としたのは、映画化にあやかって売らんがなの目論見であることは自明である。マリアンヌ(Marianne)というのは女主人公の名前。ただし、ドイツ語ではマリアンネと発音する。

 ミュンヘン生まれのピーターはナチスの台頭に呼応するかのようにドイツからウィーンに逃れ、更にパリに渡った。パリ時代に、この小説のフランス語訳の企画が生まれたのだが、結局、彼は1936年にロンドンに亡命して英国国籍を取得する。彼は、それまでに出生時の名前Peter von Mendelssohnからフランス風のPeter de Mendelssohnに改名していた。

 ここまで来ると、読者は『わが青春のマリアンヌ』の中身を知りたいだろう。映画ならばDVDがまれに手に入るがフランス語版が多い。また、小説ならドイツ語版は容易に手に入る。しかし、フランス語版と日本語版は多少難しいが入手不可能ではない。ということで、ネタばれは控えることにする。ご容赦あれ。

 (念のために申し上げたいこと二つ。日本語訳で「ピーター(Peter)」を「ペーター」としているがドイツ語ではそのように発音すると勘違いしているようだ。ドイツ語の発音もピーターである。また、町山智浩という人のこの映画案内をYouTubeで聞いたが間違いだらけだった。)

 第6章 緑の四十の色合い

 バリーは、おとなしく助手席に座っていた。彼もオライリーベルファストからのドライヴ中は押し黙っていた。ジーニー・ケネディーの検査をオライリーが何ゆえ中断したかについてのちょっとした議論のせいである。
 しかも、いまいましいことに、オライリーの説明を考えれば考えるほど、この老人、つまり老練な医者のほうが、患者に不必要な負担を掛けさせないということで正しかったと思えてくるのである。おそらく、オライリーの粗野な正面からは見えない優しい側面があるのだろう。
 バリーがそんなことを思いめぐらしていると、車がキャンベル・カレッジ〔注一〕の赤レンガの壁に差し掛かった。彼の医科大学に行く前の母校だ。もう卒業してから七年も経っている気がしない。キャンベルでは四年間寄宿舎生活をした。
 そこでの寄宿生は、ネルソン提督の海軍の伝統を踏襲することと言われていた。すなわち、ラム酒、男色、ムチ打ちの仕置きだが、ラム酒に慰めがあるわけではない。もちろん、すべてが文字通りではないが、何かの規則の些末な違反で、バリーも先輩の寮委員に叩かれたことはある。
 また、親友もそこでできた。ジャック・ミルズという男で、ロイヤル・ヴィクトリア病院〔注二〕で外科の研修中だ。ジャックとバリーは、キャンベルの上級生時代に一緒で、医学生の頃もインターンの時もつるんでいた。
 バリーはジャックに電話して、今度の初めての土曜の休みに会えるかどうか聞いてみることにした。オライリーについてのジャックの意見が楽しみだった。
 車は市街地の混雑を抜けた。オライリーはアクセルを吹かし、ローヴァ―車を曲がりくねったクレイグアントレット・ヒル通りを疾駆した。バリーは、生垣が窓をかすめる前方を見つめ、あわや車輪が道路際に突っ込みそうになるので身を固くしていた。
 オライリーが何か言った。
 「えっ、今何とおっしゃいました?」
 「『家まで、あっと言う間だ』と言ったんだ。」
 いや違う、家に着く前に車がひっくり返っているかもしれない、とバリーは思った。
 「鳥のように走り、ザ・ストレートまで登っていって、そこで文字通りこの鳥を空に放つこともできるぞ。」
 オライリーがそう言ったが、バリーは今ここで自分を解放してもらいたいものだと思った。改めてオライリーを見て驚いた。彼は片手で運転しながら、もう片方の手でパイプの火皿の上にマッチを押し付けているのだ。
 「オライリー先生、少しスピードの出し過ぎではないですか。」
 「馬鹿なこと言っちゃいけないよ、君。」
 オライリーは激しく燃える石炭の蒸気機関のように煙を吐きながら、車を大きく旋回させた。
 バリーは頭を抱えた。反対から来る干し草を摘んだトラックをすんでのところでやり過ごしたのだ。背もたれに体を戻したときには、道路が水平線に向かって真っすぐになっているのが見えた。
 そういえば、父親は何度となくバリーをキャンベル・カレッジに送り迎えしてこの道を運転してくれたものだと思い出した。表面の光ったアスファルト道路が両側の山の起伏に沿って続いている。ここは氷河によって押し上げられた土砂が山になったところで、氷河期末期の産物だ。
 左側は、大きな新石器時代の丘を利用した砦〔注三〕であることを知っていた。このアイルランド島の端に住んでいた数千年前の古代ケルト人が築いたものだ。
 また、そこには十二世紀なってノルマン人が来た時に造られたダンドナルドすなわち「ドナルの砦」という名の掘割に囲まれた墳丘墓の構築物も残されている。オライリーがスピードを緩めなければ、コントロールを失ったローラーコースターのように、車は斜面ん沿ってロケットのように飛んでゆくから、恐らく新しい墓が二つ必要になる。
 バリーは、深く息を吸い込んだ。胃の奥にわいたむかつく気持ちを納めるためだ。落ち着くんだ。せめて、ザ・ストレートが早く終わってほしい。そうすれば、オライリーはスピードを緩めざるをえない。
 少し、スピードが弱まった。次の角に差し掛かると車が揺れる。オライリーが嘆息する。
 「ああ、いい気分だ。むちゃくちゃ素晴らしい。こういう道路は好きだねー。」
 「この糞・・・」と、バリーは苦しい息の下で小さくつぶやいた。そのとき、なぜか突然、トードホールのトード氏〔注四〕が盗難車で英国の田舎を爆音と共に行く幻を見てしまった。
 車が田舎道に差し掛かると、オライリーは、「もうすぐだぞ、あのバリーバックルボーの丘が我らの家だ」と言って、自分の時計を見た。
 「あと十分で後半戦だ。」
 車はどんどん進む。葉の生い茂ったエルムの樹が太陽をさえぎって、田舎道に古い教会の陰鬱で厳かな雰囲気を投げかけていた。道と草地の境の石積みの塀を抜けていく。草地には羊と牛が草をはみ、草原の緑に対照的な黄色の花をつけたエニシダの藪がしっかりと生い茂っている。
 車が小高い丘に乗ったとき、眼下にバックルボーが見えた。村はメイポールを囲む形で固まった家々やアパートが中心部を形成し、その輪郭は丘の中腹から鉄道路線までまばらに広がっている。そうだ、あの列車で、今度の休みが来次第、ベルファストに行くぞ。
 単燈式の交通シグナルが見えた。そこはオライリーが海辺に通じていると言っていた道のあるところだ。砂丘と銀色の雑草の群生の上を、白い鳥の群れが輪を描いたり急降下したりしたかと思うと、潟の泡立つ波に向かって飛び立って行った。
 一隻の貨物船が、波をかきわけて進んでいく。行き先はベルファストの港だろう。バリーは、その船首の先に、港にあるハーランド・アンド・ウルフ造船所のクレーンが想像できた。クレーンは、靄の掛かった工業地帯の空を背景にして誇らしげにそびえている。市内を覆っているその靄は、ノッカーフ・モニュメント〔注五〕のオベリスクまでも、あるいはケイヴ・ヒル〔注六〕の頂上の花崗岩の指までも染みにしてしまう。
 ベリーは車の窓を下ろして田舎のきれいな空気を吸い込んだ。頭上でヒバリがピーチクピーと鳴き、ウズラクイナが近くの草原でギーギーと騒いでいる。クラシック音楽とロックンロールの鳥の世界のような気がした。
 自動車は一番村はずれの家を通り過ぎた。
 「間もなく我が家だ」とオライリーが言った。
 「我が家?」とバリーは心で思った。オライリー先生にとっては、確かに我が家だろうが、僕にとってはまだ疑問だ。
 オライリーは左を一目素早く覗くと、静かに言った。
 「さあ、ここだ。この角を曲がったら信号を越したところだ。」
 左折してバリーバックルボーの大通りに入ると、信号待ちしている赤いトラクターの後ろでブレーキを踏んだ。
 バリーは、トラクターの主を何となく知っている気がした。角型の顔と度肝を抜く赤毛は、どこかで見かけている。
 信号が青になり、おそらく前の運転手をせかすつもりなのだろう、オライリーは警笛を鳴らした。トラクターの主は、座席にふんぞり返った。バリーはやっとわかった。男は、シックスロードエンズで道を教えてくれて、オライリー先生の名前を出したとたん逃げて行った自転車乗りだ。
 あの出っ歯の若者は、今は後部の窓越しにこちらをにらむと、前に向き直ってトラクターのエンジンを止めてしまった。信号はそうこうするうちに赤になってしまった。
 「糞ガキめ、さっさと動け!」オライリーがうなる。
 トラクターのスターターが、ウィーンウィーンウィーンと鳴ったが、エンジンは掛からない。信号は青になった。しかし、ウィーンウィーン、プツッ、とスターターが止まる。
 「畜生め!」オライリーが怒りで真っ赤になると、信号も赤に変わった。スターターの音が二オクターヴ上がってキュイーンフューとなっても役には立たない。
 もう一度信号が青に変わった。バリーが後ろを見ると、自動車とトラックが大通りに列をなしていた。何台もの警笛が加わった。
 オライリーは次に信号が赤になったすきに、車外に出てトラクターに歩み寄った。それから信号がまた変わるときに、バリーは唸るエンジンと鳴り響く警笛に混じってオライリーの怒鳴り声を聞いた。
 「ドナル・ドネリー、人間として生きてることが悲惨なら口に出して言え、こっちが理解できるように答えてみやがれ! お前の気に入る特別な青信号になるまで待つ気なのか、おい?」
 
 
      * * *

 バリーは、オライリーの家に着くなり、泥だらけになってしまったよそ行きのズボンと靴を脱いで着替えると、二階の居間に上がってテレビ観戦に加わった。U2ラグビーアイルランド・チームがスコットランドを下した。
 バリーは、ミセス・キンケードが作ってくれたロブスター冷サラダの最後の一口を終えると、肘掛イス脇のコーヒー・テーブルの上にその皿を置いた。オライリーは満足してげっぷをすると、海側の窓から覗きながら言った。
 「台所の魔術師というのは、まさにキンキーのことだな。」
 「まったくです。」
 冷たい食事も美味だった。
 「彼女がいなかったら、どうすればいいかわからないんだ。」
 オライリーは、サイドボードにふらっと向かいながら聞いた。
 「シェリーを飲むかね?」
 「ええ、お願いします。」
 バリーは、オライリーがバリーにシェリー酒を少し注いでくれ、自分自身にはアイリッシュ・ウィスキーをたっぷり注ぐのを見ながら、彼の言葉を待っていた。彼は、バリーにグラスを渡すと、肘掛イスに戻った。
 「今までずっと彼女と一緒にいた気がする。キンキーがいなければ診療なんてできなかったろう。」
 「何ですか、それは?」
 「ここに赴任したのは一九三八年だった。フラナガン先生の助手としてだが、不愛想な爺さんでね。私は医大を出たばかりでも、決してあなどれない若者だった。ところが爺さんときたら極めて時代遅れ。例えばだ、その当時でさえ、やっちゃならない非常識な治療をするんだ。
 「本当ですか?」
 あいづちを打ちながら、バリーは自分がにんまりしてしまったのを悟られまいとした。
 「爺さんの大きな関心は・・・まあ、彼が私に忠告したことなのだが・・・バリーバックルボーだけに見られる不思議な病気なんだ。それが、非熱性の鼠蹊部膿瘍。」
 「何ですって?」
 「非熱性鼠蹊部膿瘍〔注七〕だ。爺さんが言うには、力仕事の男に多く発症したそうだ。爺さんはいつも切開治療した。」
 「手術したんですか、ここで、この村で?」
 「総合医は戦前ならしたんだよ。今はまったく変わってしまったがね。我々は外科は病院に回さなきゃいけない。まあ、それが最良でもあるが・・・私が最後に盲腸を取り出したのは懐かしいウォースパイト〔注八〕の艦上だよ。」
 オライリーは、ゆっくりと酒を一口飲んだ。
 「ともかく、フラナガン先生は『非熱性鼠蹊部膿瘍』と私に言ったんだ。それから、『切開したときに膿は出ない。ガスと便だけだ、それから四日ほど後に患者は死ぬ。』ともね。」
 バリーは驚いて、ふんぞり返っていたイスにまっすぐ座り直した。
 「フラナガン先生は、脱腸つまり鼠蹊ヘルニアを腫瘍と診断したんですね。」
 「その通りだ。だから、脱腸にメスを入れるということは次に必ず・・・。」
 「腸を切る! 何ということだ。で、オライリー先生はどうなさったんですか。」
 「大変な間違いをしてるんじゃありませんかと、知らせようとしたさ。」
 「それで?」
 「私がフラナガン先生に考えを改めるように言ったのは一度だけだ。田舎の総合医の中には、どれほど気難しくへそ曲がりでなのがいるか、君は想像もつくまい。それに、私はお金も必要だった。あの頃は、仕事にありつくのが難しかった。」
 「今とは違いますね。」
 バリーは、シェリーのグラスを唇に付けたままで、表情を隠しながら言葉を継いだ。
 「そのまま、先生がここに留まったのは驚きです。」
 「いや、違う。翌年にドイツに宣戦布告したのですぐさま海軍に志願したんだ。」
 「じゃあ、何がこの村に復帰させることになったんですか。」
 「戦争が終わったとき、海軍はもううんざりだった。だからフラナガン医師に手紙を書いた。すると、彼の家政婦だったミセス・キンケードから返事が来て、フラナガン医師は亡くなり、診療所は売りに出ていると書いてあった。」
 「それで買ったわけですね?」
 「そういうわけだ。除隊後の退職金があったし、銀行からの借入金を足して、建物と診療所の営業権を買い、ミセス・キンケードには、そのまま働いてもらうことにした。一九四六年からだよ、我々は。」
 オライリーは、自分のグラスが空になっているのを見つめてから、バリーのグラスもひったくって、言った。
 「鳥は一つの翼では飛べん。」
 「私もその通りだと思います。」
 「さあ、座りたまえ」と、もう一杯ついだグラスを手渡しながら、オライリーが言ったのでバリーは座りなおすと、オライリーも同じようにした。
 「どこまでだったかな?」
 「お話は、診療所を買ったところまでです。」
 オライリーは、自分のグラスを大きな両手で抱えてつぶやいた。
 「それから、すんでのところで、最初の一年間で潰れるところだった。」
 「いったい何があったんですか。」
 「田舎者どもだ。君がようやく慣れてきた連中だよ。しかし、色んなことを一時に変えようとした私の間違いだった。初めの頃の患者に、君も見たことがないような、大きな脱腸ヘルニアの農夫がいてね。」 
 バリーは笑ってしまった。
 「非熱性鼠蹊部膿瘍! フラナガン医師のように切開したんですか。」
 しかし、オライリーは笑わなかった。
 「恐らく、そうしたほうがよかったんだろうな。私が切るのを拒むと、その男は、私が医業を知らない若造だと言い広めてしまった。患者は来なくなった。」
 ゆっくりとグラスを傾けると言い足した。
 「だから、月々のローンが払えなくなった。」
 「それは、心配だったでしょう。」
 「ああ、死ぬほどね。既に言ったように、キンキーが救ってくれなきゃ、とうに潰れていた。彼女は長老派だよ、知ってたかね。」
 「コーク州出身ですか。」
 「コーク州じゃ皆が皆カトリックじゃないからね。」
 「確かに。」
 「彼女が私を連れて教会に行ってくれたんだ。地元の人たちが、私を信心深いキリスト教徒だと思い込むようにね。」
 「それが大事なんですか、ここでは。」
 「いや、その頃のことだよ。」
 「ひょっとしたら、まさにこの小さな村では、いまだに新旧両派の宗教戦争があるということですか。」
 「もはや、それはないね。彼らにとっては、自分たちの医者が教会に行くのが単に好ましいということだ。何であれ、どこかの教会や礼拝堂に行ってる限り、問題はないわけさ。」
 「それは安心しました。ベルファストで起こったディーヴィス通り暴動の際には、プロテスタントカトリックの争いによる死傷者の世話にずいぶん時間を費やしたものです。あれは、とてもひどかった。」
 「ここでの状況を君は知らないからね。オトゥール神父とロビンソン牧師が毎週月曜日に一緒にゴルフしてるよ。」
 オライリーはパイプを取り出すと、目の前のテーブルに置いていた缶からエリンモーアのフレーク状タバコを出して火皿に詰めだした。
 「七月の十二日にね・・・今度の木曜日だが・・・プロテスタントのオレンジ・ロッジ兄弟団がパレードして、バリーバックルボーのカトリックの半分も勢揃いするんだ。皆、ユニオンジャックをはためかせてね。しかも、シェイマス・ガルヴィン団・・・知ってると思うが、あの、いわゆる時代遅れのカトリック集団も、バグパイプのバンドを繰り出すんだ。」
 彼は、マッチをすりながら話を締めくくった。
 「ともかく、キンキーとは、そういう人だ。」
 「なるほど。」
 「ああ、二人して教会に繰り出したときだが、キンキーは一番いい帽子をかぶり手袋もはくが、私は一張羅の背広だった。」
 バリーは、自分の泥だらけのコーデュロイのことを残念に思いながら聞いた。
 「二人で教会の席に座ったとき、何人かは振り返って見ていたね。誰かが、ありゃあ尻と腕の区別もつかない若い医者だと言ってるのも聞こえた。説教の間、首を回して、ずっとこっちを見つめているのもいた。どうも居心地が悪い。」
 「お察しします。」
 「君は<神の摂理>なるものを信じるかね。」
 バリーは、冗談を言ってるのかと、オライリーを見つめた。因みに、大男の目は見据えたままなので、冗談でないことは明らかだ。
 「まあね、私も信じてなどいなかった。あの特別な日曜日までは。最後の讃美歌の途中で、最前列の大きな男が、伝説の妖精バンシーのように泣き出した。胸をつかみ、阿鼻叫喚のうちに倒れてしまった。皆が歌うのを止めると、牧師が言った、『お医者さんがいるはずですが』。するとキンキーが猛烈な一突きを私に、『さあ、行って何かしてあげて』と投げかけた。」
 「それで、先生は何をしたんですか。」
 「カバンの中から聴診器を取り出すと・・・あの頃は、医者は診察カバンなしに出かけることはなかったんだ・・・通路を急いだ。男は、薫製ニシンのように青くなってる。脈拍、心臓ともに停止。危篤状態だ。」
 「当時、心肺蘇生機器はあったんですか。」
 「何もない。サルファ剤を除けば抗生物質だってめったに手に入らなかったんだ。」
 「じゃあ、手詰まり立ち往生?」
 すると、オライリーはいかにもおかしそうに笑った。
 「そうだったとも言えるし、そうでなかったとも言える。自分の評判を得るための絶好の機会と取ったね。『カバンを持ってきてくれ』と叫んで、私は例の男のシャツのボタンをはずしにかかった。キンキーがすぐにカバンを持ってきてくれた。中にある手っ取り早い注射液をつかむと注射器に吸い込み、そいつの胸に突き刺した。
 それから聴診器を押し付け、『生き返った』と言った。すると、会衆の驚きのため息が離れたドナディーの町まで聞こえるほどだった。そのまま数分待って『また死んだ』と言ってから、もう一度注射した。今度はざわめきが一層響き渡る。期待に応えて『また生き返った』と宣言してやった。」
 「その男が死んだり生きたりしたんですか。」
 「それはありえん。まな板の鯉のようにじっとしたままだが、もう一本注射したんだよ。」
 「教会で、しかも村人の半数の目の前で、一人の男の気を失わせて、それがどうして診療所を守ることになったのか、よく理解できません。」
 「キンキーが手配してくれたんだよ。先般逝かれた先生が、私について役立たずの医者だと評価してたのを、誰かが不満に感じていたというのを聞いてね。私はそのために、通路の男のように死に体の状態だった」
 「無理もないです。」
 「『ちょっと待ってて』ってキンキーが私に耳打ちしたんだ。彼女は牧師を見つめながら、『牧師先生、救い主イエス様はラザロを生き返らせたんでしたわね』と念を押すから、牧師はうなずいた。終戦記念日の黙祷のような静けさがあって後、キンキーが口を開いた。『ただし、イエス様は一回だけ生き返らせたのに、ここにおられる私たちのお医者様、オライリー先生は二度もなさいました。』」
 オライリーは残った酒を飲みほしながら、言い足した。
 「それ以来、私は休む間もなく働かされているわけだ。」
 「かくして老練に・・・。」
 玄関ホールに呼び鈴が鳴り響いた。
 「まあ、そういうわけだ。さあ、若い先生、ちょっと玄関まで行って誰だか見てきてちょうだい。」
  
 
      * * *

 バリーが玄関のドアを開けた。すると、腕組みして脚を広げて踏ん張った男が入口の階段に立っていた。彼は、ほとんど球体と言ってもいいくらい、背が低く丸々としていた。黒い三つ揃いの背広を着て、山高帽をかぶり、怒っていた。その怒りは、バリーからすると、ロシアのイヴァン恐怖帝〔注九〕に仕える者が何か難しい状況に直面したときのように思えた。
 「オライリーはどこだ。」
 訪問者は今にも踏み込む勢いだ。
 「オライリー、出てこい、話がある!」
 ドスの利いた声で怒鳴る様子は、暴風の中で後甲板の船長が帆柱上の見張りに叫んでいるようであった。
 「オライリー、下りて来い、今すぐだ!」
 すぐに二階で動き出した気配がした。たぶん、この訪問者は、オライリーに怒鳴ることが獰猛なドーベルマン・ピンシャー犬の目に棒を突っ込むくらいの効果があることを知らない。
 「私がご用件を・・・。」
 「あんたのことは知ってるよ、ラヴァティー。」
 訪問者は、向きを変えて思案中のバリーを直視した。ここに来て一日しかたっていないのに、彼のことはすぐに知れ渡っていたのだ。
 「あんたじゃなくて、オライリーに用がある。」
 バリーは、固まってしまった。F・F・オライリー大先生の医療原則第一に違反する患者が今まさにここにいるのだ。バリーは上目づかいにオライリーが下りて来るのを見た。オライリーがこの男をすぐに追い出すであろうことはわかったが、バリーとしては自分なりにこの男と対峙する覚悟でいた。
 「私はラヴァティー医師です。何か不都合が・・・。」
 小柄な真ん丸男の目が光った。
 「医者だと? はっ! 俺が誰か知ってるのか?」
 バリーは、「どうして、おわかりいただけないんでしょうか」と言ってはみたものの、役には立たない。
 「俺はフリーメーソン評議員で、バリーバックルボー・オレンジ教区の司教であり、礼拝主任だ。覚えておけ。」
 そう言っている男の背後にオライリーが立った。
 「今晩は、評議員殿。どうされました? まさか非熱性鼠蹊部膿瘍ではないでしょうな。」
 オライリーの口調は丁寧であるが、バリーに送った目配せは悪魔的であった。
 フリーメーソン評議員で司教様である真ん丸男は、見上げるようにしてオライリーに向き直った。オライリーは微笑み返すが、バリーには彼の鉤鼻が明らかに青白んだのが見てとれた。
 「オライリー、指が変なんだ。」
 彼は右手の人差し指をオライリーの鼻の下に突き出した。バリーも皮膚が見えた。赤くて爪床が腫れたために光沢が出ている。その下は黄色の膿だ。
 「痛くなってきたんだよ。」
 「あれ、まっ。」
 半月形の鼻眼鏡を掛けながらオライリーが声を上げる。
 「さあ、何とかしてくれるんかい?」
 「手術室に入ってくれ。」
 オライリーがドアを開けたので、バリーも彼らの後について中に入り、オライリーのしていることを見ていた。彼は、戸棚から手術用具を取り出すと鉄製の滅菌槽に浸してスイッチを入れ「一分もかからん」と言った。
 「そりゃあ、いい。私も忙しい身だから。」
 司教殿は、そう言って、でっぷりした尻を回転イスに下ろした。
 「で、奥さんはどうかね」とオライリーが話しかける。
 「おい、そんなことはどうでもいい。急いでくれよ。」
 「了解」と言って、オライリーは台車を司教に向かって押し出した。台車の車輪がきしむ。滅菌槽があぶくを立て、蓋の下から蒸気が筋になって噴出している。戸棚に行って布で包んだ物を取り出すと台車の上に置いた。
 「ラヴァティー先生、包みを開けてください。」
 バリーは、包みを開けてみた。中には、緑の無菌タオル、無菌綿棒、スポンジ鉗子、ステンレスの薬壺、膿盆、手術用手袋があった。オライリーが手を洗っている水の音がする。バリーは、これから何が起こるか何が必要か、わかっていた。
 少なくとも、消毒薬、滅菌槽内の道具、部分麻酔薬・・・まさか、部分麻酔をしないことはあるまい。膿瘍に何もしないでメスを突き刺すことはないだろう。
 オライリーが手袋をはめるパチンパチンという音がした。
 「デットル消毒液とジロケイン麻酔薬は台車の下にある。」
 バリーは、部分麻酔と茶色の消毒剤を取り出し一安心した。オライリーが、痛みを感じないようにしてから膿瘍を切開するつもりなのがわかったからだ。バリーは、デットル消毒液を台車の上の薬壺に注ぎ、消毒液のビンは台車の下の棚に戻した。
 「ありがとう」と言って、オライリーは、スポンジ鉗子の両端に綿を詰め込んだ。
 「さあ、司教殿、この盆の上に指を突き出して・・・。」
 「さっさと、やってくれ、先生。」
 滅菌槽のベルが鳴って、手術道具の用意が整い、まさに司教殿が間もなく「ううーーーっ」と声を殺してうなるばかりである。
 確かに、痛い。バリーは、デットル消毒液の痛みが噛まれたようなものであることを知っていた。消毒済みピンセット、メス、注射器、それらを取り出しオライリーの台車に並べながら、聞いた。
 「局所麻酔ですね。」
 「その通り」と答えながら、オライリーが注射器を構える。
 司教殿は、固く結んだ唇から短い息が漏れてちょっと動揺したような音を立て、大きく見開いた目で注射針を見つめた。
 「指の局所麻酔をするつもりだ。」
 そう言って、オライリーは麻酔薬の入ったビンのゴムの蓋に針を突き刺し、注射器に吸い込んだ。
 「刺すよ。」
 警告すると、人差し指と中指の内側の指間膜に注射した。
 「うぅ、あぁ、うぃー」と司教殿がうなる。
 「悪いな。はい、反対側も。」
 外側のこぶしの間にもジロケイン麻酔薬が入る。
 「ふーいー、うー」と、イスの上で身をよじる。
 「あんたが急いでいるのはわかるが、神経ブロックが効くまで待たなければならないんだ。」
 「わかった。まかせるよ。」
 司教殿が仕方なく泣き声で応じる。
 「ところで、指の具合はいつから悪かったんだ」とオライリー
 「二、三日前かな。」
 「気の毒に、もっと早く来ればよかったのに。手術はいつも午前中なんだぞ。」
 「今度はそうするよ、先生。神に誓って、そうする。」
 オライリーはバリーに向かって目配せした。バリーは、オライリーの口がかすかに上に傾き、目の周りに小さなしわができたのを見逃さなかった。「やるぞ」と言っている。メスをつかんだ。
 「ほら、何も感じなくなったろう。」
 言うが早いか、オライリーが切り込んだ。バリーは、血と黄色の膿が出ていき、腫れがひいて行くのを見つめた。
 「悪い店子がいるより空き家のほうがいいということだな。あれっ、司教殿、気絶してるようだ。」
 確かに、あの丸い小男は、イスの中でしぼんでいた。
 「困った男だ。」
 オライリーは、傷口を綿棒できれいにしてから、二枚の四角なガーゼで傷口を覆った。
 「自分では名士のつもりなんだろうな。何しろ、この村の土地の半分は彼のものだ。」
 それからロールトップ・デスクを指さして言った。
 「そこに気つけの薬ビンがあるから取ってくれないか。こいつの気絶に付き合って一晩過ごすわけにはいかない。」
 バリーが、その机に歩みながら思ったのは、今まで見たオライリー医師の小さな手術は皆、王立病院のベテラン外科医の技術に匹敵するということだった。だから、何とかして司教殿に、患者が医者に期待するならお互いの礼儀も大事だということを知ってもらいたかった。それは、もちろん医者が患者の優位に立つためではない。しかし、彼らにとっての認識は、この辺りの言い回しにあるように、「ビーグル犬の遠吠えさえ聞こえない」ほど及びもつかない遠いことであった。
 
 
〔注一〕Campbell College は、ベルファストにある北アイルランドの男子中高一貫校。すなわちハイスクール。英国のカレッジは大学ではない。
〔注二〕Royal Victoria Hospital。同名の病院がカナダのモントリオールにあるが、ここではもちろんベルファストの病院。
〔注三〕hill fort。大ブリテン島とアイルランド島に残る遺跡。高地を利用して円形に砦を築いた。
〔注四〕Toad of Toad Hallは一九四七年に映画化されたA・A・ミルン(Alan Alexander Milne, 1882 – 1956)の作品。ヒキガエルのトード氏が自動車に乗って大暴れする。
〔注五〕Knockagh Memorial。ベルファストにある戦争記念碑。オベリスクが立っている。
〔注六〕Cave Hill。ベルファスト郊外の崖。ベルファスト潟(Belfast Lough)を望んで北岸にある。
〔注七〕Cold groin abscesses。鼠蹊部に膿が溜まって腫れるが熱はないという意味だが、病名としては変。
〔注八〕Warspite。英国海軍艦艇の名前。
〔注九〕十六世紀のモスクワ大公・ロシア皇帝イヴァン四世。イワン雷帝とも言う。

 第5章 ゆっくり急げ

 バリーは、ケネディー氏とオライリー先生に付き従って農場内の母屋に向かった。白壁でワラぶき屋根の平屋だが、コケが生えてるところをみると何年もふき替えてはいないだろう。煙突から煙が立ち昇っている。燃えるピートの強い臭いがした。どの窓にも黒い雨戸が付いている。
 オライリー先生が「ダーモット、今年の大麦の出来はどうかね」と聞くと、ケネディー氏が「豊作だよ、先生・・・ブッシュミルズ酒造との契約もまだ生きてますしね」答えるのが聞こえた。その答に、オライリー先生が嬉しそうなのは、バリーにもわかった。
 屋敷の奥に、灰色のコンクリート・ブロック造りの納屋が建っていて、前面が吹きさらしなので中がよく見える。一面の壁には俵に束ねた干し草が積まれていて、波型の鉄板屋根の下にはマッシー=ハリス・トラクターが停まっている。
 牛小屋から数匹の牝牛がバリーを見つめていた。数羽のニワトリと威張ったような一匹の雄鶏が、屋敷のワラが散らばった土の中をついばんでいて、ボーダー・コリー犬が一匹、玄関に近い犬小屋から身を乗り出している。
 バリーは、ケネディ氏が、「先生方、お入りになって」というのを聞いたが、自分の泥だらけの長靴を見つめた。
 ケネディー氏は、「あそこに靴の泥かきがあります」と言って、ドアの脇の泥かき棒とマットを指し示した。
 バリーは、できるだけ泥をこそぎ落してから家に入って行った。入ったところは、明るい台所だった。奥の壁に向かって、黒いエナメルを塗った鋳物のかまどが据えられている。ヤカンからの湯気が、ニス塗りの天井のハリに昇って行く。床はタイル張りだった。
 「先生方がいらしたよ、お前」とケネディー氏は奥に声を掛けた。
 女性が立っていて、水仙の絵柄のカップに紅茶を注いでいた。首のしわや右手の二本の指の関節が少し曲がっていることから、バリーは彼女が五十代前半と判断した。
 「あら、オライリー先生、往診ありがとうございます。」
 オライリーは、がっしりした松のテーブルに座って応えた。
 「往診は当たり前のことさ。こちらは新しい助手のラヴァティー先生だ。」
 ケネディー氏の奥さんは、バリーにちょこんとお辞儀をした。
 彼女はエプロンを掛けていた。白髪混じりの黒髪はぼさぼさで、バリーに笑いかけはするが、ほんの口元だけの笑みだった。下に隈の出来た目が、作り笑いであることを物語っている。
 「先生もお茶をいかがですか。」
 「はい、いただきます。」
 「おかけになって、別のカップを持って来ます。」
 彼女は食器棚に向かった。そこには青い皿が縦に並べられ、一番下の棚の真ん中には緋色と黄色の金連花がいっぱい詰まったジャムの瓶が一つ誇らしげに座っている。
 バリーはイスを引いて、オライリーの隣に座った。彼女が黒く煮詰まった紅茶のカップを出したときに、彼は礼を述べた。
 「何を入れますか。」
 「ミルクだけお願いします。」
 彼女はミルクのビンを差し出した。
 「で、あんたが言うには、ジーニーの健康がすぐれないということだが?」
 オライリーの言葉に、バリーがこの男と出会ってから初めて、いつもの不愛想な調子が少しもなかった。
 「はい、先生、何にも食べないんですよ。お腹がとても痛いと言いましてね。」
 「あげたかね?」
  バリーは、オライリーが「吐く」意味の方言を使ったのでにんまりした。
 「一度だけ。シーツ一面にです。ジーニーの奴、恥ずかしがって、そりゃあ、とても。私とブリジットは、一晩中ジーニーの側に。」
 そう言って、ケネディー氏は妻を見た。
 「それに、あの子は高熱で、ええ、今もです。」
 奥さんは、エプロンの端を握りしめながら、小さな声でそう言った。
 「ミセス・キンケードに、そのことを朝の電話で言わなかったのかい、ブリジットさん。もっと早く往診するべきだったな。」
 オライリーがそう言うと、奥さんは交差させた両手でテーブルクロスをつかんで、
 「おお、お医者様、先生がどれだけお忙しいか私たちは存じてます。だって、ほんの腹痛だけなわけでしょう?」
 「うむ」とオライリーは、口をきっと結んだまま曖昧に答え、
 「ともかく、ジーニーを早速診察したほうがよさそうだ」と言って立ち上がった。
 ケネディー氏も妻を見て、
 「ブリジット、さあ案内しなさい」と促した。
 「こちらです、先生」と、ブリジットがドアに向かう。
 「行こう」、オライリーはカバンを持ち上げ、バリーを通すために、道を開けながら言った。奥さんの後にバリーが従い、広間を経由して小さな寝室のドアを抜けた。
 窓のインド更紗の明るいカーテンが左右に開いている。子供用ベッドの掛布団には、日の光が差し込み、枕を二つ重ねてだるそうにした少女が横たわっていた。黒髪を束ね上げ、火照った頬にテディーベアのぬいぐるみを押し当てている。彼女は、明るい薄茶色の目で、バリーを見つめた。
 「こちら、お医者様のラヴァティー先生よ、ジーニー」と、奥さんが紹介した。
 バリーは部屋の隅に移動して、オライリーが少女に微笑みながらベッドの端に座るのを見ていた。ベッドが、彼の重みできしむ。
 「なるほど、ジーニーちゃん、気分がすぐれないんだね?」と聞くと、彼女は頷きながら「お腹が痛いの」と答えた。
 オライリーは、右の手の甲を少女の額に当てた。
 「熱があるね」と、彼はまず判断した。
 「ジーニーちゃん、脈を取らせてくれるかな?」
 彼女が右手を差し出した。
 「百十だな」と、次に言った。
 バリーは、頭の中でそれらを他の診断情報に加えた。つまり、二十四時間に及ぶ腹痛、食欲不振、嘔吐、それにオライリーが今伝えた熱と速い脈拍だ。バリーはもうわかっていた。ほぼ間違いなく少女は盲腸炎だ。それから彼は、娘にできる限り微笑みかけようと、ベッドの足下に立っている母親を見た。
 「君のテディー君を見せてくれるかね、ジーニーちゃん?」とオライリーが聞く。
 彼女はオライリーにぬいぐるみを手渡した。オレンジ色の毛皮が、ところどころ裏地のネットまですり切れていて、片方の耳は食いちぎられている。
 「よし、よし、テディー君」と言いながら、オライリーはぬいぐるみをベッドカヴァーの上に置くと「舌を出して、アーと言ってごらん」とオモチャに促した。彼はかがみ込んで、クマちゃんの顔をのぞき込み、「よろしい。さあ、今度はお腹を診てみよう。」
 彼が、したり顔で頷きながら「ああ、キャンディーの食べ過ぎかな」と言うので、ジーニーは笑った。
 「さあ、今度は君だ。」
 クマのぬいぐるみを返しながら、オライリーは優しく言った。
 「舌を出してごらん。」
 少女は言われるままにした。彼は前にかがみ込みながら臭いをかいだ。
 「ラヴァティー先生も、ちょっと見てごらん。」
 バリーも身を乗り出した。舌にコケが生えていて、彼女の息は臭っていた。
 「お母さん、上掛けをのけてもいいかね?」オライリーが聞いた。
 母親が上掛けを取った。
 バリーは、ジーニーの目が母親から自分の腹に向かい、更にオライリーの顔に移るのを見ていた。
 「どこから痛くなったのかわかるかい?」
 少女の指が、赤く腫れた肋骨の下のみぞおちの辺りをさまよっている。
 「初めに痛かったところがまだ痛むでしょう?」
 彼女はゆっくりと頷き、右下のわき腹を指さした。
 バリーは縮み上がった。その先の検査は嬉しいものではない。盲腸炎の徴候の一つに、腹膜炎症の反跳痛がある。腹壁の上を指で押してから急にその指を離すと、腹膜の炎症を起こした層が動いて、強い痛みを引き起こす。
 更に悪いことに、教科書的には、医者は直腸の検査を尻の穴からするように勧められている。バリーは元々小児科が嫌いだった。小さな患者の恐怖、涙、何をされているのか理解できないままに傷つく心。取り分け嫌なのが、小さな患者に検査で痛みを与えることだ。もちろん、それが必要なことであることは理解している。
 「痛むんだね」とオライリーは言うと、バリーが驚くことに、小さな体の上の上掛けをそっと引いた。ピーター・ラビットの寝巻を着ている。
 「ジーニーちゃん、ベルファストまでドライヴしたくはないかい?」
 少女はオライリーを見つめ、次に、うなずいている母親に目を移した。もう一度、ジーニーは無骨なオライリーの顔を見つめ直す。
 「いいわ。テディーも連れていけるの?」
 「もちろんだ。まだ、寝たままでいてくれよ、いい子だから。お母さんとちょっとお話があるからね。」
 オライリーは立ち上がり、かがんで少女の前髪を撫で上げた。それから、背筋を伸ばすと戸口に向かった。
 バリーは、何だこれはと思った。まずいぞ。オライリーは念入りな処置をしていない。雑な診察だ。この熱血男はラグビー観たさに急いで帰りたいから手抜きしている。 
 「おい、どうした、ラヴァティー先生、来なさいよ。」
 バリーは、少女をもう一度振り返り、診察を継続するかどうか思案した。
 「さあ、ラヴァティー先生、いらっしゃい。」
 だめだ。今は何もできない。後でオライリー先生と話そう。バリーは結局そう決断した。
 確かに、オライリーが、頭の変な老婦人に役にも立たないビタミンを服の上から注射して済ますのは、バリーなら精神科の診断を要するところではあるが、見逃してきた。しかし、明らかに病気の少女にこんな杜撰な扱いは・・・。
 「じゃあ、またね、ジーニー」と、あいさつしてから子供部屋を出て、バリーは台所に戻った。
 ケネディー氏は、片腕で細君の肩を抱き寄せて立っていた。細君はエプロンの端で目を押さえていた。
 オライリーは片方の耳に受話器を当てている。救急車の手配だろう。それで終わりだ、とバリーは思った。子供は病院に送り込む、後は病院に任すんだ。そうすれば、糞ラグビーの試合に間に合うだろうよ。
 オライリーの声は、天井の梁を抜けて途切れ途切れに聞こえて来る。
 「何だと、ベッドが空いていないとはどういうことだ。こっちには盲腸炎の子供がいるんだ。あと三十分で子供病院に行くんだぞ・・・しっかりしてくれ、お兄さん。ともかく、ドナルド・クロミー卿を捕まえてくれ・・・何っ、今日が彼の休みかどうかなんぞ、どうでもいい。クロミー卿に伝えるんだ、フィンガル・フラッアティーオライリー医師が呼んでると。・・・違う、オラッファティーじゃない、とろい奴だなあ。オライリーだ。バリーバックルボーの・・・オ・・・ライリー医師だ!」
 彼は受話器を受け台に乱暴に戻してからも、「役立たずの医局員だ」と毒づいた。
 「先生、先に救急車は呼んだんですか」と、バリーが聞いた。
 オライリーが唸る。
 「おかしなことを言うな。私の自動車でベルファストまであの子を連れて行くに決まってるじゃないか。」
 「いや、先生は家に帰って試合を観るものと・・・。」
 「大馬鹿野郎。ジーニーは盲腸を摘出するんだ。しかも大至急。救急車など呼んでる暇はない。」

      * * *

 ケネディー一家をベルファスト王立子供病院に連れて行ってから、医師であるドナルド・クロミー卿も盲腸炎の診断に同意し、直ちに手術してくれることになったのでオライリーは喜んだ。彼はもう一度ジーニーの母親に声を掛けてから、バリーの手を取ると車に急いだ。
 「急げ、ラヴァティー。うまくいけば、後半戦が観られるかもしれないぞ。」
 そうか、駐車場に向かう時にバリーは思った。彼は試合を忘れていたわけではないし、バリーも、あの農場で目撃したことは忘れていない。
 オライリーの診察は丁寧なものではないが、確かにジーニー・ケネディーの盲腸に関しては適切だったし、ケネディー一家を自分の車に乗せてベルファストに運んだのは秀逸な措置だ。しかし、だからといって、バリーには納得のいかない診断法だった。
 オライリーが病院の敷地からフォールズ通りにまで車を出したときに、バリーは口を開いた。
 「オライリー先生、結果的に正しい診断ができたというのは幸運だったと思うのですが。」
 「えっ? どうしてそんなふうに思うのかね。」
 オライリーは比較的穏やかに聞いた。
 「先生は急ぐあまり適切に子供を診断しなかったじゃありませんか。」
 「私が?」
 「ええ、私にはそう見えましたが。」
 オライリーは、自転車を避けようとして急なハンドルを切りながら「馬鹿野郎」と呟いた。
 「私を馬鹿と今おっしゃいましたか。」
 「いや。だが、お望みなら言ってもいいかも。」
 赤信号で止ったときに、オライリーはバリーに向き直った。
 「君、診断ははっきりしてたじゃないか。子供部屋に入ってすぐに、君の顔の上にある鼻に来たろう。あの子の口臭だよ。」
 バリーは、オライリーの鼻が怒りで蒼白になっていないか心配したが、その兆候はない。
 「君は僕に、あの子のお腹を押したり脇腹を指で突き上げることを期待してたのかね。ちょうど教科書に書いてあるようにさ。」
 「ええ、私は・・・。」
 「まあ、無意味だね。ああいう小さな子は十分怖がっている。それ以上の痛みを与える必要はないだろう。」
 そういって、オライリーは、再び車を発進した。
 「ええ、恐らくそうですね・・・。」
 バリーにもオライリーの理屈は理解できた。また、オライリーにとって、一家をベルファストまで連れて来る医学的な必要性がなかったことも、ベリーは感づいていた。
 「君の感想は『恐らく』で終わりかね。まあ、僕に付いてきたまえ。そのうち、教科書が教えないことをもっと学ぶことになるだろう。」

 第4章 馬耳東風

 バリーは、昼食の自分の皿を押しのけると、食堂のイスに寛いでいた。確かに、オライリーの診療の仕方には改良の余地があると思う。しかし彼は、静かにゲップをしながら考えた。ミセス・キンケードのご馳走がこのまま続く限りは、オライリーの一風変わった振る舞いは我慢しておこう。
 「往診だ」と、テーブルの向かい側から声を掛けながら、オライリーが何やら紙片を見つめている。「診療所に来れないほど病気の重い者が電話してくるのを、キンキーが朝のうちにリストにしてくれたのがこれだ。」
 「朝食時に先生に渡したものですね?」
 「その通りだが、そこにその後も電話してきた者の名前を加えることになっている。」
 オライリーは、その紙片を折り畳むと、ツイードのジャケットの脇ポケットに押し込んだ。「今日はついてるぞ、一軒だけだ。ケネディー家だ。」
 彼は立ち上がった。「さあ、行くぞ。今夜はテレビでラグビーなんだ。キックオフに間に合うように帰って来たい。」
 バリーは後を追って階下に降り、ミセス・キンケードのいる台所を過ぎる。彼女は洗剤の入った水で溢れる流しに肘まで浸かりながら、彼らに笑顔で挨拶しながら言った。
 「このロブスターを夕飯にしましょうか、先生?」
 「そりゃあ、豪勢だね、キンキー。」
 バリーも、ご馳走が期待できると喜んだ。
 「キンキー、今晩は婦人会の集いがあるんじゃなかったのかね?」
 オライリーは、ふと立ち止まって聞いた。
 「ええ、そうよ。」
 「じゃあ、ロブスターは冷めていても構わんよ。サラダを少しばかり添えて置いといてくれ。早目に帰りなさい。」
 オライリーは、先を急ぎ、彼女の謝辞を聞く間もなく裏手のドアを開けると、バリーを先に外に出した。
 裏手はフェンスに囲まれた広い庭で、バリーが寝室から見下ろした所だ。左手の生垣の上に野菜が育っている。リンゴの樹が何本か、まだ熟していない実をたわわに付けて、よく手入れされた芝生の上に覆いかぶさっている。バリーは、コックスのオレンジ・ピッピン種とゴールデン・デリシャス種があるのはわかった。背の高いクルミの樹が遥か離れた庭の隅にあり、垂れ下がった枝が犬小屋への日照を遮っていた。
 「アーサー! アーサー・ギネス」とオライリーが叫んだ。
 大きな黒いラブラドール犬が、犬小屋からつんのめるようにして芝生に飛び出すと、体が左右に九十度も曲がるほど尻尾を激しく振って、オライリーに飛びついた。
 「よしよし、いい子にしてたかね?」と、犬の横腹をポンポン叩きながらオライリーが言った。
 「アーサー・ギネスと呼んでるんだ。アイリッシュ犬だし、黒いし、なにしろ頭がでかいからね。まさに濃厚なスタウト・ビールだろう。」
 「アルーフ」とアーサーが唸った。
 「これ、アーサー・ギネス、ラヴァティー先生に挨拶しなさい。」
 「アーフ」と吼えるや否や、アーサーはバリーにじゃれつきだした。
 「アラーフ」とすがりつく犬を、バリーは必死に追い払う。
 「アーサー・ギネスは、アルスター地方でも最良の血統の猟犬だよ。」
 「狩猟をなさるんですか、オライリー先生。」
 「フィンガルに行くんだ、フィンガルだよ君。お察しの通り。アーサーと私は終日カモ猟を楽しむんだ。そうだろアーサー?」
 「ヤーフ」とアーサーは返事しながら、前足をバリーの足に絡め、狂った杭打機のようにピョンピョン跳ねた。興奮した獣を押しやろうとしてうまくいかず、止めろ、こん畜生、とバリーは思った。止めないようなら、お前の子孫はラブラドールが混じっただけの馬鹿雑種になってしまうぞ。「お座り、アーサー」とも言ってはみたが、ますます激しくなるので黙っていたほうがよさそうだ。
 「まあ、そのうち慣れるさ」と言いながら、やっとオライリーは、「戻れ!」と小屋を指さした。
 アーサー・ギネスは別れ際の一打を残して去り、自分の住み家のほうにふらふらと帰って行った。
 「人懐っこい犬ですね」と言いながら、バリーはよそ行きのズボンの泥を払ってみるが、おいそれと取れはしない。
 「まあ、あいつが君を好きならね。もっとも、ありゃ、間違いなく君が好きだ。」
 そう言って、オライリーはまた歩き出した。
 「そんな筈があってたまるか。」
 バリーは、裏庭は避けようと心に決めた。
 「車庫はこっちだ。」
 オライリーが裏門を開けた。小道を横切ってから、おんぼろの小屋に近づき、引き上げ戸を下から持ち上げた。バリーが中をのぞき込むと、黒くて長いボンネットのローヴァ―車があった。少なくとも、ここ十五年は製造されていない型だ。
 オライリーが乗り込んでエンジンをかけた。車は文句でもあるかのように唸ったかと思うと、バチバチと音を立て、更に爆音を轟かす。バリーも助手席に飛び乗った。オライリーはギアを入れると小道にハンドルを向けた。バリーは口を結んだ。車は犬の湿っぽい悪臭とタバコの煙の臭いで満ちていたからである。彼はすぐに窓ガラスを下げた。
 オライリーは左折して道路に出て家を後にすると、傾いた尖塔のある教会を通り越し、バリーバックルボーの大通りを通り抜ける。バリーは周囲を眺めた。白塗りのテラス・ハウス、一階だけのコッテージ・ハウス、昔からのわら葺きだったり、スレート屋根だったり、そういうのが並んでいる道だった。交差点に差し掛かって赤信号で止まった。遠くにペイントが剥げている大きなメーポールが左に傾いて立っているが、巨大な床屋の看板柱に見えた。
 「ここでのベルテーン祭りは見ものだよ。ほら、昔からのケルト族のメーデーさ。」
 その柱を指さしながらオライリーが言った。
 「かがり火、ダンス、処女狩り、・・・もっとも一人か二人でも残っていればの話だが。地元民は容易に異教のご先祖様をないがしろにはしないもんだ。お祭り騒ぎができるとあらばね。」
 エンジンの速度を上げながら、道の右手を指し示して説明した。
 「この道を下ると海岸に辿り着く、反対に左手を上っていけばバリーバックルボー丘陵というわけだ。」
 バリーはうなずいた。
 信号が黄色に変わった。オライリーは、クラッチを滑らしながら、エンジン音を轟かせて前進した。
 「黄色の信号は単なる旅行者用だよ。」
 彼は別の方角から来るトラクターになど頓着しなかったので、トラックは連結車両を横にひねりながら交差点で立ち往生することになった。
 「試合に間に合うように帰るぞ。バリーバックルボーのときめく心。」
 片手を振り回す意味のない仕草を繰り返しながらつぶやいた。
 二階建ての建物が続く通りになった。八百屋、肉屋、新聞販売店、更に一段と大きな建物があって看板が道に突き出ている。屋号は「ブラック・スワン」。すると、バリーは見慣れた人影を発見した。左足首に包帯を巻いて、びっこを引きながら、その店の入り口に向っている。
 「ガルヴィンの奴だ。畜生、ギネスを飲みだしたら湖まで飲み干すぞ、あいつは。」
 そうオライリーが言うので、バリーは「ブラック・スワン」の店内に入るガルヴィンを首をひねって見つめた。
 「あいつは放っておけ。」
 ギアを高速に上げながらオライリーが話し出した。
 「この辺りを見せておこうと思ってね。ほら、この道を行くと、私たちはベルファストに向かうことになる。右を見てごらん、わかるだろう? いつでも列車に乗れるぞ。」
 バリーが右手に目を向けると、盛り上がった土手に沿ってディーゼル列車がゆっくりと動いているのが見えた。これは面白いと思った。休みの日はあれに乗ろう。車で行くよりは安いに違いない。医学部時代の友人に会いに行ける。だって・・・。
 するとその時、オライリーが急ブレーキをかけたので、彼は前につんのめった。
 「糞牛め!」オライリーがうなった。
 白黒まだらで柔和な目をした牛が道の真ん中にいる。周囲にまったく無頓着、道の真ん中をのっそりと、悠長に口を動かし反芻しているのだ。
 オライリーが窓を下げ降ろした。
 「シーッシ、動けったら、こら馬鹿牛、シーッシ!」
 牛は頭を下げて、哀れっぽく一声「モー」とは鳴いたが、一寸たりとも動かない。
 バリーは助手席に深く座ったままオライリーを観察した。既に見て来たとおり、今に癇する。オライリーは席を立ってドアをバンと閉めると、牛に向って歩き出した。
 「おいこら、馬鹿牛、こっちは急いでんだ。」
 「モー」というのが牛の返事。すると、
 「よーし、そのつもりなら」と言って、オライリーは腕一本で角の片方をつかんで引っ張った。バリーは驚いた。牛が二歩前進した。明らかに頭部に加えられた力に逆らえないのだ。
 「さあ、動け、糞野郎!」オライリーが吼えている。
 牛は耳をピクッと動かして頭を下げると、道路の端に飛びのいた。オライリーは車に乗り込むと、ドアを閉めながらギアを入れるやいなや、アスファルトにタイヤをキキーッとこすって発進した。
 「まさに、こん畜生だ」オライリーが呟く。
 「動物だよ。まあ、田舎医者の楽しみでもあるがね。君のどうやって対処するかそのうち慣れなきゃね。」
 「わかりました」とバリーが返事して、
 「結構」とオライリーがうなずく。
 しかし、オライリー先生の言うことが本当だと気づかされるのは、この少し後になる。

        * * *

 オライリーは一声唸るとギアを力任せにあちこち入れた。バリーはエンジンが唸りながら文句を言っているのがわかった。すると、後輪のタイヤが駄々をこね、空回りばかりしている。
 「こん畜生め、歩くしかないぞ。車から出てくれ。」
 そう言ってオライリーは、体をかがませると、後部座席の黒い鞄とウェリントン・ブーツをひっつかんだ。
 バリーも車外に出た。ところが、舗装してない道の轍の溝に足をすくわれくるぶしまで埋まってしまった。ぬかるみから交互に足を引き抜くと、びしゃびしゃのまま歩いて、草のある道の端に逃れた。なんてことだ! 靴もとっておきのズボンも汚くなってしまった。もっとも、黒ビールの染みは元々ついてはいたのだが。さて、これを皆ドライクリーンイングに出せば幾らぐらいかかるものか。
 バリーが首を回わすと、轍の道の先に一軒の農家を見つけた。
 「先生、あれが患者の家ですか。」
 「ああ、あれがケネディーんとこだ。」
 「どこか、あそこまでの別の道はありませんか。私の靴が・・・。」
 「いつだってゴム長は必要だよ」と言って、オライリーは自分のウェリングトン・ブーツを指さした。
 「靴なんて心配することもなかろう。」
 「でも、この靴は高かったんで・・・。」
 「おやおや、まあまあ! よっしゃ、畑を横切って行こう。」
 バリーは、オライリーの鼻に少しばかり、落胆の印があるのを見て取った。
 「さあ行くぞ。あと三十分で試合が始まる。」
 オライリーは片手にカバンを下げたまま、痛い針のある黒スモモの生垣に付けられた錆びた五枚板のゲートをこじ開けて、畑の中に大股で入って行った。
 「入ったら、その血まみれのゲートは閉めておけよ。」
 オライリーが、振り返って叫んだ。
 バリーはゲートを引っ張って閉めるのに手こずった。門柱に針金の輪を引っかけてゲートが開かないようにするのだが、文字通り、その際に手がこすれて傷ができ血が出て来た。彼は傷口の血を舐め、じっと絶望的な靴を見下ろした。たった一足しかないよそ行きの靴。
 オライリーが怒鳴った。
 「おい、ぐずぐずしてると日が暮れないか。」
 「こん畜生」とバリーは呟やきながらオライリーが立っている方角に向かった。畑の草は膝まであり、緑の毛の生えた種がある。それに湿ってる。いや、濡れている。一生懸命前進すると、ズボンの裾にその種がまとわりついているはずだし、それに、脛がだんだん湿って来た。ああ、せめて草の露が泥を洗い落としてくれれば。
 「いったい何してたんだ。」
 「オライリー先生・・・」答える代りにバリーは、これ以上の脅しをされまいと話し出した。
 「・・・これでもできる限りの速さで来たんですよ。」
 「はあ。」
 「それに僕の靴もズボンも台無しじゃないですか。」
 「何だって、君はブタを知らないのか。」
 「残念ながら、ブタが僕の着ている物と何の関係があるのか存じませんね。」
 「勝手にしろ。だけど、もうそこに来てるじゃないか。」
 そう言うと、オライリーは急いで歩き出した。
 バリーが驚いて立ち止る。小さなカバの形のピンクの物体が彼らに向って進んで来る。そいつはアフリカにいる転がるように歩く動物に似てはいるが、バリーが考えるように、バリーバックルボーでは見られないのだから、問題の生き物はブタに違いあるまい。その眼は、もうかなり近くまで来ているのでわかるのだが、赤くて、はっきりと悪意に満ちていた。バリーは、駆け足でオライリーに向って走り出し、ゲートと畑の突き当りの中ほどの彼に追いついた。
 「あれはブタに違いないです。」
 「よくわかったな。」
 オライリーは歩幅を伸ばしながら言った。
 「どこかで読んだが、家畜化されたイノシシは醜くなるそうだ。」
 「醜い?」
 「ああ」、オライリーは大きく息を吸って答えた。
 「血に飢えた大きな歯がある。」
 オライリーは、なおさら歩幅を最大にして歩き、妥当なバリーとの間隔をまた広げてしまった。
 バリーは、金メダルに近いオリンピックの競技者が、後続を振り返ったがゆえに逃した者の少なからざる例を知っていたが、どうしても振り向かざるをえなかった。獣が優っていた。そいつが「血に飢えた大きな歯」を使うつもりなら、最初に襲うのは最初に出会った者であるのは想像に難くない。
 バリーはダッシュした。前方の生垣から十ヤード離れた位置でそろそろ疲れが出たオライリー先生を追い越せた。
 ミセス・キンケードの霊験あらたかなステーキ・アンド・キドニー・プディング〔訳注一〕のせいで、ますます先生の耐久力が弱まったに違いない。バリーは、低いゲートを通り越したときに、そう思った。
 そのとき、すんでのところで鳥打帽をかぶった小男にぶつかるところだった。男は微笑みながら農家の庭に立っていた。この男にバリーが話しかけるよりも先に、午後の静寂を粉々にする、何かを粉砕し引き裂くような音がした。オライリーが、針のある黒スモモの生垣を、まるでノルマンディー上陸作戦のアメリカの戦車が森を潰しながら進むかのように押し倒して入って来た。
 彼は立ち止ると、ツイードのスーツの破れ目を調べ、苦しい息を整えようとした。それから彼は、バリーにとっては初対面の、険しい細い目をしているが心底笑っている鳥打帽の男に歩み寄った。
 激しい運動で、オライリーの頬はまだ火照ったままなのに、鼻のてっぺんだけは白い。
 「ダーモット・ケネディー、いったい何がそんなにおかしいんだ」と怒鳴った。
 返事はない。その代わりケネディー氏は、お腹を抱えて笑い転げ、止まらない笑いの合間合間にやっと「呆れたもんだ・・あれは見ものだったよ・・おかしくって」と息切れしながら言った。
 「ダーモット・ケネディー!」
 オライリーは一メートル八五センチの体躯を伸ばしてもう一度怒鳴った。
 「お前は文明人にとっての害悪だ。いったい、どういう了見で人食いイノシシを放し飼いにしているんだ?」
 笑い転げていたケネディー氏も背筋を伸ばすと、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、にやにやしながら目の涙をぬぐった。
 「いったい、どういう了見かと聞いているんだ!」とオライリーが吼える。
 ケネディー氏はハンカチをしまって言った。
 「あれはイノシシなんかじゃないですよ、先生。あれはガートルードという名で、ジーニーが飼ってる雌ブタです。あのブタは、ただ鼻先をこすりつけたいだけです。」
 「ほー」とオライリー
 「なるほど」とバリー。
 バリーは、予定が遅れているのでオライリーにどやされるのを承知で言った。
 「動物というのは・・あっ、先生、間違っていたら、そう言ってくださいね・・田舎での診療の楽しみの一つなんじゃないですか。だから、先生はああいうものの扱いに慣れなきゃいけないと思うんです。」
 「その気になれば先生にだってできるさ。」
 そう言ってケネディー氏は真顔になった。
 「だけど、先生、それは百姓の仕事です。お医者様は病人らに目をかけて・・・。」
 彼は、そこまで言うと、戸惑いながら自分の長靴に目を落としてから、言葉を継いだ。
 「先生をこんなところまで引っ張り出して、まことに申し訳なく思っています。本当です。しかし、私どものジーニーがとても心配なんです。家に入って彼女をじっくり診察していただきたく、お願い申しあげます。」
 
 〔訳注一〕steak-and-kidney pudding は賽の目の牛肉と肝臓をラードで調理しており、高カロリーのソーセージ・プディング