大事なのは、問題と共に生きることだ <意味の意味>
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タイトルの「大事なのは、問題と共に生きることだ」はリルケの書簡からの和訳である。安易に、また早急に、あるいは稚拙に答を急ぐより「問題と共に生きてみろ」という趣旨だ。「意味の意味」とは、まさに以下のメモ書き。
「まず最初の意味は、「対事象・基盤的知覚判断(founding sense-event)」と名づけているもので、三つのセットとなる事象(event)の要素すなわち、1)先行する社会的歴史的に措定された概念、2)書き手の意図や信念、3)語義そのもの、とを相互に関連づけることによって、結果としてその真偽はどうであれ、取り敢えず理解され記述されたあらゆる聖書本文の意味のことである。これら事象の三要素の土台に対して(すなわち「対事象」)、四番目の要素となるのが「知覚判断(sense)」である。第一章で詳述するが、言語というものは常に、土台となる三要素を通して理解される以上のもの、あるいはそれに加えた何ものかを携えている。この「超えた何ものか」を「知覚判断」と名づける。
テクストに関わる二つ目は、現に今ここからという視点を意識した「対事象・現今的知覚判断(present sense-event)」による聖書本文の意味であり、これがわれわれの現前の世界で「対事象・基盤的知覚判断」に具体的な言葉の意味づけと今現在の評価を与えることになる。更に、対事象・現今的知覚判断は、「テクスト受容の複合機構(text-reception complex)」から生じるが、これはテクストの「知覚判断」を露わにする過程で、「価値判断(value)」に変容された関係の中に立ち位置を限定された解釈者にとっては、個々の経験に先立つ(a priori、先験的な)機能となる複合的な仕組みである。
対事象・現今的知覚判断は、解釈者が現に属する世界において、対事象・基盤的知覚判断の「再現(replay)」、すなわち言い換えれば、起点への「巻き戻し(counter-actualization / contre-effectuation)」と常に関係することになる。解釈者自身の関心に繋がるのであり、解釈者自身が、他者と現前の世界との双方に、意識的に関わろうとする企てである。あるいは、対事象・現今的知覚判断は、確かに実存的な側面を持つが、同時にその実存的側面に反して、決して人間中心でもないし、人間の領域を上手く超越して恣意的な「意味作り」にまで拡張できるものではないことを納得させる、とも言える。極めて現実的な知覚判断からすれば、意味は、われわれの実存を超越した、言わば避けられない運命なのである。」