Comments by Dr Marks

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復活論争の難しさ(不毛性)とペテロの手紙など少し

復活祭が近づいたからか、復活に関する論争が盛んらしい。しかし、初めからがっかりさせることを言おう。復活のことなど、聖書を読んだだけではわからない。聖書だけを示して人に信じろ、あるいは理解しろというのは土台無理な話である。
もちろん、復活を信じることはできる。しかし、議論には不向きの題材であり、多くは単なる擬似問題(学問的には問題となりえない問題)であり、それをおしゃべりして空回りしているだけである。もっとも、それが楽しいのであれば何も言わない。

二世紀の終わり頃から三世紀初頭にかけて北アフリカで活躍したテルトリアヌスというキリスト教神学者がいる。ラテン語で著作したが、本職は法律家だから弁舌爽やか、模範的ラテン文と言われている。(私が判断したわけではない。私はラテン語クラスの劣等生だった。最終学期は痛恨のB。)

ところがだ、彼に De Resurrectiones Carnis(肉体の復活について)という著作がある。一度、ラテン語原文を傍らに置きながら英語訳を読んだことがある。じぇんじぇんわかりましぇん。盛んにパウロ先生を引用もしますが、論理が空回り。いえ、これは私だけの意見ではおじゃりませぬ。この問題になると、頭脳明晰なテルトリアヌス様が、アホー科で法学を学ばれた、この大先生がしどろもどろ。(そもそも、これに関してはパウロ先生も同じ。)

復活の信仰は、信仰者にとっては具体的である。しかし、これを他人に説明するときには比喩をどれほど駆使しようが、抽象的な議論にならざるをえない。むしろ、具体的な主張をするならば、揚げ足を取られるだけである。

例:肉体を持ってというが、アルツハイマーで死んだら生き返っても自己認識しないのだから復活は意味がない。死んだ時点で復活するのでないなら、いつの時点で復活するのか、赤ん坊か、ジジイか、はっきり言ってくれ。片腕になってからか、両手が揃っているときか。(有名な話:片腕になってからにしてくれと願った傷痍軍人がいる。片腕になってからの生涯のほうが長く、片腕で生活するほうが便利なそうだ。ハワイのイノウエ上院議員の話ではない。←第二次世界大戦の欧州戦線で右腕を失う。今、上院議員。)

使徒信条」という信仰箇条(クリスチャンが信じている内容を手短に述べたもの)にイエス・キリストは死んで葬られ三日目に甦ったことが記されている。具体的な文言はパウロのコリント人への第一の手紙15章からの引用であるが、パウロの創作ではなく、パウロも受け継いだ初期キリスト教徒の信仰の内容だ。

しかし、三日経つまでどこにいたのだろうか。正典聖書はどことは言っていない。葬られた直後から墓は空である可能性もある。(アポクリファの「ペテロの福音書」には、イエスが三日目に二人に支えられ、十字架を従えて墓から出てくる記述があるが、主流のクリスチャンは、それを一つの想像としか捉えてはいない。)

いや、聖書のペテロ第一の手紙3章19節がそうなのではありませんか、というあなた、悪くはない。(中味は聖書開いて読んでね。信じなくてもいいから。)三日の間の居場所として地下世界にいたと解釈してきた伝統が主流派の一部にないこともないからだ。ところがどっこい、地下世界とはどこにも書いていない。もっとも、ペテロの歴史的・社会的理解からすれば地下世界が理解できないこともない(Elizabeth Bloch-Smithの死者への供物の研究参照)。

しかも、三日の間の出来事という保証もないのだ。さて、ここの解釈で現在のところ有名な著者がいる。W.J. Daltonという人の研究だ(1989年)。今手許にないが、かいつまんでは話せる。しかし、それに触れる前に、大学のデータベースに接続して(楽な時代になったものだ、夜中にドライヴして図書館に駆け込まなくてもいい)最新の論文をゲットした。

Andrew J. Bandstra, " 'Making proclamation to the spirits in prison': another look at 1 Peter 3:19,” Calvin Theological Journal 38(2003):120-124.

著者バンドストラ独自のものではないが、大別して三つの解釈があるという。(1)地上の生涯のイエスの前に、つまりノアの時代に捕らわれていた霊のもとに行った、(2)葬られてから捕らわれていた霊のもとに行き勝利の宣言をした、つまり良くない霊たちに引導を渡した、(3)同じく、葬られてから捕らわれていた霊のもとに行くが、福音を伝えるためであった、つまり霊を救うため。

さて、ダルトンの有名な解釈は(2)に当たる。ここで霊とは、人間の霊ではない。死ぬことのない天使の霊、ここでは良くない天使の霊(セム語の「シャデス」。ハデス=地獄と間違わないでね)のことだ。前後の関係から、これは聖書学者の多数が同意している。そして、キリストご自身の復活とともに、これらの霊に神の勝利の宣言を行ったと解釈する。

これは、東方教会を含めた伝統的な復活観とも矛盾しないので、ダルトンの理解に同意するものは少なくなく、ペテロの手紙を専門としない学者にも知れ渡っている解釈だ。このダルトンの解釈によれば、同じ手紙の4章6節の「死んだ者への福音」とは無関係となる。もっとも、3章19節と4章6節が同じ内容と思うこと自体、自明のことではない。Nestle-Aland のギリシア語聖書などを見ると、3章19節の傍注に4章6節が確かに注記されているが、もともと参照用に注記しただけで、同じ内容であることを保証したものではない。ダルトンの著書は、

W.J. Dalton, Christ's Proclamation to the Spirits: A Study of 1 Peter 3:18-4:6 (2nd ed. Analecta Biblica 23; Rome: Pontifical Biblical Institute Press, 1989)