Comments by Dr Marks

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単純脳用聖書解釈―サルの惑星のサル知恵

聖書の中味の理解は日常の生活を辿ればそれほど難しいものではない。しかし、「日常の生活」だけに頼って理解できるとは限らないものもある。それゆえ、教会は長い伝統の中でカテキズムのような信徒教育を行ってきた。ただ、そのような教条的な教育は、頭ごなしに行っても、また強制的に信じ込ませようとしても、もちろんうまくゆくわけではない。

聖書の中味は、実は、本来は理解のためではなく信仰のためである。しかしながら、理解から遊離した信仰はないと言っていいかもしれない。そこで、理解が困難なときに、人はどうするか。この二千年の間にもさまざまな試みがなされた。つまり、自分が自分で納得がいくように、あるいは自分が理解できる範囲で理解に決着をつけてしまおうとする傾向がいつの世もあった。(本当は、決着などつけなくてもいいのだ。)

例えば、オリゲネスの比喩的解釈だが、あまりの飛躍した比喩は、後に批判の対象となってしまったことは周知のことだろう。もちろん、比喩そのものが悪いのではない。適切な比喩が時と場合によっては効果的なことを否定するわけではない。しかし、例えば、聖書に示された中心メッセージである「復活」は、比喩をもって語れる性質のものであろうか。

この聖書の中心メッセージは、まず「イエスの復活」と「信じる者の復活」に分けて考えなければならない。どちらも難しいが、一般には、パウロなどの具体的描写にも拘わらず、後者のほうが難しい。なぜかというと、我ら自身の死後の世界や復活に関しては、さまざまな信仰が可能であって、統一した理解・見解など、聖書だけからは難しいからである。ただ、イエスの復活については、詳らかにならないことが多いことは後者と同じであっても、聖書が伝えようとした「死からよみがえり、地上にしばらく過ごした後、天に昇られた」という伝承は、その言葉のままで理解できることであり、それが自分の常識で可能な事件かどうかは別の次元の問題となる。

然るに、イエスの復活についても、我らの復活の希望と一緒にした挙句、実存主義的で主観的な解釈で済ますことになったらどうだろう。復活は、我らの日常の生活と科学的常識から判断すると、2000年前の出来事あるいは事実ではないし未来の出来事でもないと言い放ち、聖書が伝える「特別」のことでもなく、仏典や仏教者が考えたことと共通する「一般的」な希望であり、復活は今生きてあること自体であると断言したりすることになる。

私は、実は、実存主義には深く共感する一人である。最後の最後は私一人の実存の企て(信仰)だと思っている。しかし、聖書の記述の真面目で地道な検討や、歴史的事実まで単なる思惑の中に追いやって、鰯の頭で済ますことは潔しとしない。サルの惑星のサル知恵的実存主義者にはなりたくないのだ。