Comments by Dr Marks

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No. 28.

コメントにならないコメント−43(ヴァメーシュの『イエスの復活』「その他の新約聖書中の復活記事」後編)

第一ペテロの復活観はパウロの復活観に似ている。すなわち、キリストの(十字架の)死が罪をあがない、キリストの復活が洗礼を通して信ずる者の救いをもたらす。これは両者に共通する復活観だが、第一ペテロのパウロ書簡と異なる点は、地上での復活に先立ち地下の死者の国に降ってキリストが救いの活動をなすことである。(陰の声:パウロが書いていなかったからといって、パウロにその考えがなかったとは言えない。例えば、使徒信条を見よ。)

金曜日の夜から日曜日の朝のいずれかのときに、自身の復活の前にシェーオール(死者の国)を訪れ、イエスがある罪人の一団を救うのである。その一団はノアの箱舟の洪水の時期に、寛大な神が与えた悔い改めの機会をも無にした者たちだ。要するに、罰当たり共。

ユダヤ教の伝統では、神はかならず誰にでも救い(悔い改め)の機会を与えることになっている。洪水で死んだ者たちにも、ノアは「義の布告者(herald of righteousness)」(第二ペテロ2:5)として悔い改めを説いたのであるが、結局聞き遂げられることはなく、8人(ノアと3人の息子、ハム、セム、ヤフェテ、更にそれぞれの妻)だけが救われた。

ここには、水と洗礼のイメージが交錯することは既に述べた。しかし、ノアが果たしえなかった説得(救いの活動)が、イエスの場合はどれだけ成功したかの記述はない。(←こら、ヴァメーシュじいさん、そんな罰当たりを言っちゃだめだよ。まあ、イエスが既に霊に満ちていたかどうかわからないなどとも書いているが、満ちていたとするのが妥当だろうね。以上、陰の声。)

そんなわけで、第二ペテロなんかは復活というよりは、今で言うユニヴァーサリズム(Universalism、普遍救済説)の気があるな。ただし、キリスト教のユニヴァーサリズムであって、諸宗教の「まあまあ主義」というか「なれあい主義」のものとは異なる。(陰の声:ついでに言えば、ユニテリアンのユニヴァーサリズムとも違うぞえ。ありゃ、キリスト教なんぞでありゃせんわ。)そう、キリスト教のユニヴァーサリズムは、ユダヤ教の慈悲の神の流れに連なるものであって、明確な神の意志に関わる万人の救いだ。

この黄泉への降りは、前回述べたように、 使徒信条(使徒信経)」および「アタナシオス信条」において、<よみにくだり>と表現されている聖書的根拠でもある。しかし、多分、それはむしろ後に聖書に収められたということであって、すでに確立した信仰箇条であったのかもしれない。

福音書以外の新約聖書における「命」と「永遠の命」についての補足

共観福音書(マタイ伝、マルコ伝、ルカ伝)においては、「命」と「永遠の命」が神の国」と同義であった。また、「永遠の命」は神に従うことに対する褒賞であり、ときには勇敢な信仰の報いでもあった。第四福音書ヨハネ伝になると、この永遠の命はイエスを神の子と信じる信仰に対する報酬へと変化する。そして、大事なことは、四福音書のどれも、この永遠の命を復活とは結び付けていないということである。

また、永遠の命は、肉体の復活とは別物として考えることができた。更に、もし、上記の「命」と「永遠の命」を区別するとすれば、命は神の国に至る要件の承認であり(合格証明あるいは合格の事実)、永遠の命はその国において既に市民となった者の特権と言ってもいいだろう(左団扇の年金生活じゃ)。

パウロも「命」と「永遠の命」についてたびたび言及するが、イエスの復活あるいは復活一般の話と結び付けることはなかった。霊的な生き残りの印の一つとして、二度ほど不死の概念については述べた(ロマ書2:7、第二テモテ1:10)。しかし、それはあくまでも最初のアダムによってもたらされた死と、イエス・キリストに起因する命とを対比させることであった。それでも、パウロが命と復活を最も関連づけてみたことがあるとすれば、それは「十字架のイエスの死」と「よみがえりのキリストの命」を担う器としての人間の体を描写したときであろう(第二コリント4:10−11)。

ヨハネの三つの書簡は、復活に言及したことはないが、おおむねヨハネ伝とは、信仰の意味が永遠の命と結び付くことで一致している。ヨハネの黙示録について言えば、「命の水」、「命の木」、「命の冠」、「命の本」というような豊かな象徴的表現が特徴である。(陰の声:ここでさまざまな引用箇所を上げているが省略する。うるさいので。)

以上のごとく、全体として見れば、「永遠の命」に関する聖書の該当箇所は、復活の意味の解釈に資すること、稀である。以後は、まさにその「意味」が、新約聖書ではどうであったかを「解釈」してみることにしよう。

えー、皆さん、今回はほとんど横のものを縦に(英文和訳)しておりまして、へたすると著作権侵害すれすれでございます。Dr. Marks としては心外ではございますが、めんどくさかったんでございましょうかね。ともかく、次回からのところが、ヴァメーシュじいさんの言いたかったところ、本番なんです。(あまり、期待しないように。)