Comments by Dr Marks

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No. 33.

コメントにならないコメント−48(ヴァメーシュの『イエスの復活』「エピローグ」
+ Dr. Marks の採点結果)退屈から「神へ!」なんちゃって

ヴァメーシュの最新作『イエスの復活』を連載して今日が3134回目だ。3134回分を読めば、原著を全部読んだとほとんど同じで、翻訳が出るのを待つことはない。もっとも日本語への翻訳の企画はありえないだろう。もっと詳しく知りたい人は原書に自分であたるだろうし、この連載さえ tedious だったはずだから、日本語訳などいらん。

で、最後に退屈(ティーディアス)から「神へ!(Te Deum、ティディォム)」ということで YouTube をプレゼント。ただし、Prelude 2分だけだよ、退屈しないように。

エピローグ:人々の心にある復活

使徒行伝の第一章は、我々をオリヴ山に連れて行くが、そこでイエス使徒たちは自分たちの先生を「さらば」と見送ることになる。彼らは、真の意味はわからずとも、イエスが既に墓にはなく、天の父の許に昇る途上であることは信じていた。

この霊的な光景が十字架刑の三日目に目撃されたのか、あるいは40日の後であったのかは、さしたる問題ではない。大事なことは、短時間のうちに、イエスの元からの弟子たちという怯えた小さな集団が、依然として公衆の目から逃げ隠れしていたのに、突如として五旬節(ペンテコステ)の祭の日にエルサレムで力に溢れた不思議な経験をしたということである。約束の聖霊に満たされ、臆病な人々が突然に変えられて、熱狂的な精神の戦士となったのである。

彼らは公然と福音の使信を宣べ伝え、またイエスが地上での活動中に弟子たちに分与し、弟子たちが説教し、癒し、悪魔を祓うことを可能にした賜物としての能力は、いちどきに再び命を得て、言葉と行いとなって現われ出た。かつては怯えた逃亡者が、当局者の前でも勇敢に語り、神殿の門にあっても公然と病人を癒した。

こういった賜物の現実は、使徒たちの目を開き、イエスの復活の不思議に向かわせた。信仰による霊的な癒しの力は、地上でのイエスの教えと治療と悪霊を追い出す能力に基があった。福音書記者によれば、イエスはたびたび健康を取り戻した病人にこう言った、「あなたの信仰があなたを癒したのだ」と。地上にあったときイエスは、なんとか弟子たちにこの霊的な力を授けて、弟子たちに次のような喜ばしき驚きの声を上げさせたかった。「主よ、悪魔たちでさえ、あなたのお名前をもってすれば、私たちに従います」(ルカ伝10:17)。

新約聖書によれば、天の栄光のうちにある復活したキリストの主要な働きは、聖霊を地上に送ることであった。ペテロは、エルサレムユダヤ人の群集に向かって公言した。「このイエスを神はよみがえらせ、神の右の座に昇らせたもうた。そして、イエス聖霊の約束を父からお受け取りになると(弟子たちの上に)注がれた」(使徒行伝2:32)。

聖霊の衝撃と導きは、使徒や弟子たちがイエスの証人として活動する権能を与えたことになる。彼らは、まさに賜物の行為によってそうしたのである。すなわち、キリストが宣言したと言われるように、「わが名によって、彼らは悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。彼らは蛇をつかみ、たとえ毒を食らっても害を受けない。彼らが病人に手を置けば、彼らは癒される。」(マルコ伝16:18)

以上で場面の設定は終わるので、今度は、実存的、歴史的、心理的な観点から、復活の最初の日曜日に続く短期間の間の、ガリラヤから来たイエスの本来の弟子たちのことを考察してみよう。空の墓の話と、亡くなった主が出現したことは、すぐに彼らの暗い絶望の上に希望の光明が差すことになった。疑いは、それにもかかわらず、消えることはなかった。

しかしながら、聖霊の影響下で彼らの自信が復活すると、彼らの使徒としての使命を立て直すように促して、彼らが自分たちだけで行動しているとは考えず、イエスが彼らと共にいると、次第に確信するようになった。彼らが「権威をもって」福音の宣教を再開したときは、奇跡を起こす彼らの先生がまるでガリラヤで宣教していたときのようであった。

彼らが「イエスの名によって」イエスの賜物が再び働き出すのを認識すると、彼らの復活に対する疑いは解け去り、心のうちで、十字架刑にあった先生が、昔日のごとく側にいてくださるという確信に変わった。彼らの任務と共に身に着けなければならない強さを彼らに与えた救いの手は、イエスが死者の中から復活したという証拠であった。

この心の内の変容を最も感動的に表わしたのは、わが畏友、故ポール・ウィンター(Paul Winter)の有名な本『イエスの裁判について』(On the Trial of Jesus)の忘れ得ない最後の段落以外にないであろう。

判決が下り、イエスは刑場へと引き立てられる。十字架にかかり、死に、葬られたが、イエスは、彼を愛し、彼が側にいると感じる弟子たちの心の中に起き上がっていた。世に裁かれ、当局によって有罪とされ、彼の名を信仰告白する教会にさえ葬られながらも、イエスは再び立ち上がろうとしている、今日も明日も、彼を愛し、彼が側にいると感じる人々の心の中で。

生きているイエスが霊的に存在するという確信は、十字架刑の後のイエスを巡る宗教運動の再起の理由を説明している。しかしながら、初期のキリスト教を見込みのある力強い復活中心の世界宗教に成長するようにしたのは、パウロの卓越した教理と組織力という巧みの業であった。

人々の心の中の復活は、今日の懐疑論者や皮肉屋の間でさえも、共感を引き起こすのではないかと思う。何らかの公式の信仰箇条を信奉していてもしていなくても、二十一世紀の善男善女は、心の内に実感として生きているイエスの教えと模範という魅惑的な存在感によって感動し鼓舞されるであろう。

(完)

評価:A−(合格)

寸評ならびに評価の理由

ヴァメーシュは、やはり復活関連の学者ではないことは、すでに何度か述べた。辛抱して読んだ方のうちには、何だそんなことか、従来の神父、司祭、牧師が教会で説教する内容と同じじゃないかと落胆されたであろう。

実は私自身もそうだ。それにもかかわらず、取り上げたのは、これも前に述べたとおり、この分野に首を差し入れている者の一人として、詳しく復活の内容を紹介しておいたほうがよいと考えたからである。その意味では、ヴァメーシュは自分が得意なユダヤ教文献から始めて、聖書の復活記事をうまく整理して紹介している。

そのような土台(聖書知識)を持たない人と、復活のような極めて難しい話題を語り合うことはできないので、教会や聖書と無縁の普通の人には実に役に立つ本であった。ところが、問題はそれ以上のレベルの人である。明らかに、ヴァメーシュは復活に関する近年の動向については無知である。そのことが、ヴァメーシュの方法論的な脆弱さを露呈することになる。これが、Aではなく、A−である理由となる。

ヴァメーシュの結論は、極めて心理主義的な結論であり、半世紀前の、例えばハンス・キュング風のカトリック神学を反映している。従って、自身が歴史家であるにもかかわらず歴史に懐疑的であるのは残念であるし、パウロ神学以前の考察がなく、1世紀前の学界における一種の常識であった「キリスト教パウロ教」の図式に至ると、私としては古色蒼然とした神学に唖然とせざるをえない。

私たちのグループは実存主義的な聖書解釈には批判的である。これは私たちの小グループというよりは、史的イエスに取り組む近年の学者に共通する了解事項といってもいい。確かに、信仰は個人のもので主観的なものではあるが、そのことは結果として他者との対話を閉ざすこととなるからである。

ただ、究極においての一人一人の生き様は、確かに一人一人の実存であるから、この思想ゆえの減点はしなかった。しかし、そうだとすると、ヴァメーシュ本人がいみじくも語っているように、復活の神学あるいは信仰は、部外者を寄せ付けない実存の問題であり、学問の対象になどなりえないであろう。

読み続けてくださった皆様に感謝。 Mark W. Waterman, Ph.D.