Comments by Dr Marks

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説教の長さ

カトリックはじめ、西方教会の典型的な礼拝説教は15分程度である。それは、聖餐式や諸々のプログラムを1時間に納めれば結果として15分であるということだが、ふつう人間が集中して話を聞ける限界は15分だという説とも合致する。(しかし、話の内容にもよるし、聞く人間の資質や訓練もあるから、15分が限界とは限らないと私自身は思う。)

ところが、現在のプロテスタント諸派では存外に説教は長い。礼拝説教の場で説教自体を中心に据え、聖餐式など行わずにするならば、いくらでも長くなるのは道理である。内容も、聖書を逐条的に解釈していく聖書研究的な説教や、時事の話題を宗教家というよりは政治家的に批判していく説教、更に改心の個人的体験を長々と証する説教など、さまざまである。

私自身は、長い説教は「こりゃかなわん」と思うし、嫌いである。するのも聞くのもだ。した体験では45分くらいで、自分でも少し長いなと思ったし、聞いた体験では1時間45分で、普通の信徒は疲労困憊しており、私でさえ気が遠くなってきた。聖書研究会ならまだしも、礼拝説教とは言い難いが、時と場合にもよるので、一概に長いからといって是非を問うこともできないかもしれない。

よく、ペンテコステやカリスマ系のテレビ伝道者が、単に同じことの繰り返しを、まるでロックのリズムのように語っているのなどは無意味のように感じている。しかし、重要な、人を鼓舞する聖句を繰り返すことが、時には人を救うこともあるので、これをすべて駄目とも言えないかもしれない。そういえば、パウロ先生も説教が長かった記録がある。

使徒行伝20章によれば、現在のトルコ西端の港町トロアスでパウロが説教した。説教はあまりに長く夜半に及び、エウティコという名前の青年は眠気を催した。うとうとしていたのはいいが、座っていたのが3階の窓枠だったために、地上に落下して虫の息になってしまった。パウロ先生が驚いて助け起こし息を吹きかえらせたのでめでたしめでたしではあったが、パウロ先生、そりゃやりすぎだよ。(お陰で、この青年の名は後代に残ったわけではあるが。)