Comments by Dr Marks

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裏切り者のルカについて:過越しの祭の記述に関する作為?(ワインが先かパンが先か)

過越しの祭の裏切り者といったらユダではないか、なにゆえルカが裏切り者なのか。まあまあ、答はあせらないでほしい。昨夜金曜日の夕刻にTwitterであった話題をブログとしてまとめてみたいと思う。テーマはワインが先かパンが先か。

その前に、主の過越しの祭に言及している聖書の箇所をおさらいしておこう。ただし一々引用していてはたまらないので、箇所だけ示すから自分で読んでほしい(聖書を読ませる高等技術)。正典の順序で言えば、マタイ伝26章、マルコ伝14章、ルカ伝22章、第一コリント11章である。(なお、ヨハネ伝13章以下の晩餐は過越しの祭の食事ではない。)

さて、この四箇所のうち一番古いのはパウロの直筆である第一コリントだ。54/55年くらいにエペソで書かれたものである。マルコの福音書の成立は70年前後とされる。しかし、現在の形での成立であり、伝承そのものはパウロの手紙(第一コリント)より古いかもしれない。なにしろ、イエスの死の直前の出来事として、福音書に記される前から語り継がれているはずだ。

ところでマタイ伝はどうなのだ、十二弟子の一人のマタイこそ、その晩餐に加わっていたのではないか。だからマタイの書いたマタイ伝こそ一番古いのでは、と自然に疑問に思われるかもしれない。しかし、マタイ伝は残念ながらそうではない。難しい議論は省略せざるをえないが、マタイ伝の記述はむしろマルコ伝のコピーなのだ。そして、その後がルカ伝であり。ルカ伝が一番新しい。

ここで皆さんに質問。宴会の席でまず食事をしてから乾杯しますか。多分、違う。まず酒となるはずだ。ユダヤ人の習慣でもそうで、まずワインだ。だから、毎週巡ってくる安息日(シャバット=土曜日=金曜日の日没から)には先にワインを飲み、次にパンを食べる。ユダヤ人にとって金曜日の夕刻からは、素晴らしい憩いの時だ。一切の仕事を休み、歩くのさえゆったりと歩き、シナゴーグに詣で、歌を歌い家族と過ごす。

まず、一家の主婦が2本のろうそくを灯し、一家の家長(父親)がワインを祈りで聖別(祝別=祝福し清めること=blessing)し、更にパンへと至る。ワインを聖別している間は、ワインにパンが嫉妬しないようにパンは布で目隠しされる。詩篇104篇にもあるように、まずワインが人の魂を楽しくさせ、後にパンが人の心を支えるからだ。

すると、ここで疑問が起こる。クリスチャンとして日常聖餐にあずかっている人なら不思議に思うはずだ。(「はず」なのだが、神学生でもこのことに気づくのはまれ。気づいたというだけで、私ならAを上げたいくらい。)イエスから伝えられたという聖餐式の作法では、パンが先でワインが後なのだ。なぜなら、ほとんどの教派の聖餐式の式文はパウロの第一コリント11章を基としているからだ。そして、マルコ伝やマタイ伝もこの順序をサポートしている。

はてさてどうしたものか。これはおかしいのではないか、と昔も気づいた者は少なくないだろう。一見ユダヤの習慣と違う。ルカ伝の作者もそうだった。だから、このルカ伝の記者は、強引にワインを先、パンを後に書き換えてしまった。これが「裏切り者ルカ」となる所以なのだが、これは Dr. Marks のおふざけ命名あるから無闇にまねしないように。(ここでTwitterでは、ワインが先というルカが史実か、はたまたパンが先という多数派が史実かの議論があるのだが、ますます論理が錯綜するので、今は省略。)

実は、イエスは、ユダヤの習慣と矛盾した食事の仕方をしたのではないという解決策は昔からある。ユダヤ人として、ユダヤの習慣の中にいたイエスが、自分だけ特別なことをしたのではない。まず、これは過越しの祭であることに思いを向けなければならない。この祭では4回ワイン飲みを繰り返す。確かに、毎週のシャバトのときと同じでワインから始まるが、4回の作法の中で4回目のワイン飲みが式の終了となるのだ。

つまり、パンを裂いた後でもワインを聖別して飲むことは、何も不自然ではないことになる。なお、イエスのワインは、この最後の4回目ではなく、3回目であるという意見もある。いずれにしても、ワインが後になることは、部分を取り出す限り不自然ではない。

ついでに言えば、4回のワイン飲みは、一つの解釈が、出エジプト記6章の四つの祝福(カナンの地の約束、奴隷からの解放、審判による贖い、神である主の民となる契約)であり、もう一つは、創世記40章のイスラエル(=ヤコブ)の息子ヨセフが、献酌官(cupbearer=酒を注ぐ者、給仕長=王を毒から守る役目も)の夢の解き明かしをする際の杯の数であるというものだ。11節2回、13節1回、21節1回、合計4回。

なお、Twitterでは、Dr. Marks の非学問的大胆仮説も紹介された。イエスはパンをイエスの体にたとえ、ワインを自身の血にたとえている。そうだとすれば、血の入る器である体を先に作っておいたほうが好都合なのではないかという変な仮説。学問的根拠も何もない。でもひょっとしたらなんだが、本気で研究するつもりはない。今日はこのくらいにしておく。龍馬伝(皆さんより遅れて確か第9回目くらいだけど)観たいから。