Comments by Dr Marks

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No. 26.

コメントにならないコメント−41(ヴァメーシュの『イエスの復活』「パウロにおけるイエスの復活」続編)

今日でパウロ書簡を終える。次回は、その他の新約聖書の復活記事についてとなる。本番の、ヴァメーシュの見解は、その後となる。

ロ マ 書

ロマ書は、今まで扱った三つの書簡の中では一番新しく、50年代後半のものとみてまず間違いはない。この頃のパウロイエス・キリストの捉え方は、ヨハネ伝と対比すると著しく異なる

ヨハネ伝では、イエス・キリストが始原から神であるが、しばらくの間地上において人となったと見る。しかし、パウロはイエスダビデの子孫のユダヤ人の女から生まれた者であり、復活を経て神の子とされたと見る(ロマ書1:4)。換言すれば、初めの復活の日曜日にイエスの身分が根本的に変更されたとの主張である。

また、パウロは、イエスと弟子たちとの関係においても、復活に重きを置く。洗礼(バプテスマ)概念のパウロによる革新である。ユダヤ教における洗礼は、洗い清めに過ぎない。(注:洗礼者ヨハネの洗礼は、悔い改めによる罪の清めであるから、律法に定める穢れ落としの儀礼とは多少違うであろう。)ところがパウロは、洗礼槽を墓と想定し、槽の中に沈むことは死体として墓に横たわるものと想定した。

洗礼を受ける者は、罪を拭い去るキリストの死と、この洗礼の秘儀において同じ死をくぐることになる。次に洗礼を受ける者が水中から立ち上げるとき、イエスが神の子となったように、洗礼を受ける者は新しい神の子としての命を着ることになる。

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。……わたしたちも新しい命に生きるためなのです(ローマの信徒への手紙6:3−4、またコロサイの信徒への手紙2:12をも参照のこと、新共同訳)

この新しい命の誕生は、イエス復活に伴う神の霊によって与えられる。

エスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。(ローマの信徒への手紙8:11、新共同訳)

この少し後には、信徒の実生活の中においても復活が中心であることを、はっきりと力強く表明することになる。すなわち、

口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。(ローマの信徒への手紙10:9、新共同訳)

(陰の声:ふ〜む。口で「エスは主、イエスは主、…」と言うわけだな。「南無阿弥陀仏」の称名と「南無妙法蓮華経」の唱題のようなもんじゃな。)

以上に見た三つのパウロ書簡以外のパウロ書簡あるいは第二パウロ書簡においては、復活は中心的なテーマとはなっていない。ガラテア書、エフェソ(エペソ)書、フィリピ(ピリピ)書、コロサイ書、第二テモテ、へブル(ヘブライ)書においては、「復活」あるいは「よみがえる」という言葉が、計10回出てくるだけであり、しかも今まで見たような意味の説明はない。(注:ヘブライ人への手紙とも言う。ただし、ヘブル書は、古来よりパウロの真筆としない伝統がある。それゆえ、長い手紙にもかかわらず、パウロの手紙の末尾に配列される。)

その他の書簡で、第一テモテ、ティトス、フィレモンに至ると、話題にも上らなくなる。(陰の声:あ〜あ、とうとう出てしまったな、第二パウロ書簡。Deutero-Pauline epistles のことだが、日本語の定訳は知らんので「第二パウロ書簡」としたが、多分、そのように訳しているだろう。簡単に言うと、パウロの真筆性が疑われているパウロ書簡のことじゃ。)

なお、Britty さんのご指摘のとおり、どれが真のパウロ書簡なのか第二パウロ書簡なのかわかりにくいので補足します。
学者の間で意見が揃っている真筆:ロマ、1&2コリント、1テサロニケ、ガラテア、フィリピ、フィレモン
偽物と疑われるものを疑わしき順に:牧会書簡(1&2テモテ、テトス)、エフェソ(エペソ)、コロサイ、2テサロニケ

最後に、申し添えたいことがある。既に読者の中でお気づきの方も多いと思うが、第一コリント15章3節において、イエス三日目によみがえったことについて、パウロが自信たっぷりに「(旧約の)聖書にもあるように」と言うが、実は該当する記述は見当たらない。ただ、創世記の22章で、アブラハムが息子のイサクとともにモリヤの山に至り、イサクを捧げるつもりが神の助命にあうのが三日目である。パウロの自由なイマジネーションにおいて、この記事が書簡につながったのかもしれない。

(陰の声:うん、そこもそうだけど、ヴァメーシュじいさん、他にもたくさんあるんだよ。例えば、出エジプト記19:11、16、ホセア書6:2などぞろぞろ出てくるんだ。それらすべての総合的なイメージと言ってほしかったな。パウロ先生も馬鹿にはできんのだよ。まあ、次の説明を見ましょ。)

しかし、第二パウロ書簡の一つであるヘブル書に、このことを肯定的に受け取ることのできる記述が存在する。「信仰により、アブラハムはイサク捧げたが、神が人を死者の中からも生き返らせることができると考えていた」(ヘブル書11:17−19、Dr. Marksによる 簡略訳)というところである。しかしながら、メシア(油注がれし救世主)の復活が、明白な形で旧約聖書に書かれている箇所は存在しないことも確かであるユダヤの伝統に、死んで生きるキリスト(同じく、油注がれし救世主の意味)というものはなかったのである。

(陰の声:先に述べたように、古い伝統に従うのでない限り、現在はヘブル書を我々新約学者は第二パウロ書簡としてさえ見ない明白な「作者不詳」の書簡なのである。厳密には、最後の章を除けば、書簡そのものとも言えないかもしれない。)

今まで見てきたように、エスにおいては、復活は神の国に関する説教の中で周辺的なものであったが、パウロはそれを秘跡と神学の中心となした。かくして、復活は間もなく、キリストの使信(メッセージ)の真髄と見かけ上同一視(quasi-identical with)されることになる。

(陰の声:そういえば、ヴァメーシュじいさんは、使徒行伝で意識的にダマスコ途上のパウロについては詳述しなかったな。まっ、いいだろう。)

以後は、その他の新約聖書の復活記述をおさらいして、いよいよヴァメーシュは自身の見解を述べることになる。彼自身の見解につての紹介は3回以上の記事となるであろう