Comments by Dr Marks

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No. 25.

コメントにならないコメント−40(ヴァメーシュの『イエスの復活』「パウロにおけるイエスの復活」後編)

いやはや修道僧のような毎日だ。日課のように、北京五輪高校野球、さらに旧盆が近づいて夏休みの季節の日本に向かってヴァメーシュの新刊を紹介し続けているよ。だれもブログなどこの季節読まんのにね。続けてもう一か月になるな。ほとんど休みなし。こんなものでも一日一時間で終わることはない。夏になったらやろうとしたことをやらないうちに夏が終わらないように早めにお終いにしたいが、あと一週間はかかるだろうな。

近頃、大西祝(おおにし・はじめ)の遺稿を眺めている。読むというほどではない。ベッドに行った際に枕元でめくっているだけだ。同志社から東京大学に進んだ明治期の哲学者でキリスト教でもある。理由があって、東京大学ではなく、早稲田で教鞭をとった。京都大学文科の創立に尽力したが、前年のドイツでの勉学が体にきつかったのか、1900年に36歳の若さで没した。しかし、講義録などを見ると、あの時代にあって素晴らしい理解力であったことがわかる。

第一コリント

この手紙においても、パウロはイエスの復活の意義というような神学的議論というよりは、イエスの復活がイエスを信じる者にとってどういう結果をもたらすかという現実的実践的な議論に終始する。しかし、ここにおいては、肉体を伴う復活に関して、その体がどのようなものであるかの議論を前の手紙以上に進めることとなる。

パウロは、しきりに、イエスを神と信じる者は身を清いままとせよ、と勧める。娼婦と交わってはならない。イエスの体の一部である信徒の体が、娼婦と交わることにより、娼婦の体の一部となってしまう。ならば、信徒の体がイエスの体の一部とはどういうことか。洗礼によって象徴的に死んだ体は、キリストにあって復活した霊の体となっている。これはエスの復活の体であるから、イエスの体の一部である。(補足:しかし、旧新約聖書において、娼婦自体がかならずしも忌み嫌われたわけではない。)

キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。(コリントの信徒への手紙第一 6:15、新共同訳)

また、コリントの信徒の中には自分たちが果たして復活するのかどうかについて疑問を持つ者もいた。パウロは激しく彼らを糾弾する。自分たちの復活を疑うとは、イエス・キリストの復活までなかったと主張するに等しい のではないかと。イエス・キリストこそ復活の「初穂」であって、初穂の例に従って我々信じる者も永遠の命を得るのではないかと、パウロはコリントの信徒に訴える。

ユダヤ教徒であったパウロは、復活には肉体が伴うという思想がある。しかし、このコリントの信徒への手紙では、ギリシア思想があふれる社会という枠組みの中で、復活の体は全面的に地上での体とは異なると主張しだした。すなわち、イエス・キリストの復活の体のように栄光の体として、朽ちることのない永遠の霊の体を得るのである。

最後のラッパが鳴ると、……死者は復活して朽ちない者とされ、私たちは変えられます。……この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。(コリントの信徒への手紙第一 15:52−55、新共同訳)

以上のように、パウロのテサロニケやコリントの信徒への手紙の議論は、初めにイエスの復活ありであって、もし復活なかりせば、実際の我々の信仰はむなしいという、実際上の結果に重点があり、復活の意義そのものを十分に神学的に議論しているとは言いがたい。この後のパウロ書簡には、神学的な考察が窺える。なかんずくロマ書は、その答を探るためのよすがとなりうるであろう。

パウロ書簡は今回で終わりのはずだったが、急な用事が入った。次回に、後編に続く「続編」としてお届けする。今日はこれで失礼。