アメリカ合衆国憲法修正第一条の精神(不快で身を切られるような言動でも直接の暴力でなければ甘んじて受けざるをえないこと)
今日は実はこの記事をもって「はてな」からプラチナ勲章(銅、銀、金の上の最高勲章)を貰うことになる。そのための記事として、イスラエルの気違い原理主義ユダヤ教徒について書く予定であったが(Twitterで予告)、突然ながら、今日の米国連邦最高裁の憲法判断を書くことにする。まあ、これは言ってみれば、気違い原理主義キリスト教徒の話なので、予定とまったく違うこともないかもしれない。
私はかつて、日本で出版した日本語の本の中で「宗教学者の役割が、・・・、宗教を適切に批判する仕事を忘れて、世話人の役割だけに徹するなら、世話をしているつもりの宗教にもよくない結果となる」と書いたことがある。しかし、それは宗教学者の仕事であって、憲法学者の仕事ではない。宗教の中味よりは、宗教を支える社会の枠組を確固たるものにする役割を担うべきなのだろう。その意味では、今回の判断を是とせざるをえない。
今までのこのブログの読者なら今更アメリカの憲法修正第一条について説明するまでもないだろうが、念のため簡単におさらいしておく。アメリカの憲法そのものは極めて短い。7条(基本的には5条)あるだけであり、連邦政府の機関の役割と連邦と州との関係などで終わる。ところが、修正条項というのが27条あり、人権や市民(公民)の権利、女性の参政権等々、生活に密接な規定が盛り込まれている。従って、憲法本文よりは修正条項のほうが重要とみなされることもある。
(時折、修正第27条が批准されていないから26という文献があるが間違い。連邦憲法となるためには4分の3の州が批准しなければならない。50州だから38の州が批准すれば足りる。しばらく37州の批准だけで、修正条項として決定に至っていなかったが、1992年にケンタッキー州がすでに1792年に批准していたことが明らかとなり、正式に修正27条となった。従って、現在の修正箇条は27である。)
そうなんだ(と、突然、口調が変わったりするのが余のブログ)、実際に高校の授業とかさ、市民権講座では修正条項のほうが重要なんだよね。で、中でも修正第一条というのは大事中の大事。ここでは、信仰への不介入や言論の自由が謳われているんだな。原文は「Congress shall make no law respecting an establishment of religion, or prohibiting the free exercise thereof; or abridging the freedom of speech, or of the press; or the right of the people peaceably to assemble, and to petition the Government for a redress of grievances.」であるから勝手に訳してね。(訳文例はネットにもあるでしょう。)
さて、今回の連邦最高裁の憲法判断なのだが、かねてより変な信仰にかぶれたキリスト教会を標榜する団体(その教会の教会員)が、ゲイであるという理由だけで、戦死したアメリカ軍兵士の葬式にわざわざ車を連ねて押しかけ、「ゲイだから天罰で戦死した」というような意味のサインボードを掲げ、ラウドスピーカーで人を馬鹿にした歌を歌ったり、罵声を葬式の式場に向かって浴びせていた行為について、合憲としたのである。「てめえは地獄へ行け!」などと書いてあってもだ。
葬式の式場にまで押しかけての血も涙もない仕業に怒った遺族らが訴えて、遺族らが下級審では勝ったのであるが、今日、最高裁は、あの気違い集団の勝ちとしたのである。さあ、諸君、どう思う。余は、憲法判断としては仕方なかんべと思う。法というのは不思議なもので、規定があるからといって罰則があるとは限らない。先日のこと、日本ではロシアの国旗侮辱が問題となり法で罰せよということだったらしい。実際に、日本では罰則規定があるからだ。(なお、日本でのこの件は、実際にロシア国旗を損壊してはいないということで不起訴のようだ。)
アメリカには国旗を扱うための細かな規定があり、米国人の国旗を敬う心は、たぶん日本人の比ではないだろう。例えば、古くなった国旗を勝手にゴミ箱に入れてはならない。市役所や警察署などに回収箱があるから、そこに入れる。それらの古い国旗は式典で燃やされ退役することになる。しかし、そういった規定にもかかわらず、規定どおりにしなかったからといって実際に罰せられたことはない。明らかに意識的に破ったとしてでも罰せられたことはない。そう、「言論の自由」という憲法が守っているのである。
しかし、それは憲法判断であって、宗教的判断でも、倫理道徳的判断でも、社会常識的判断でもない。例えば、聖書的にみれば、葬式にまで押しかけて悲しみの中にいる遺族に更に追い討ちをかける行為がいいわけがない。彼らの行為を批難する聖書の「条項」なら山になるほどある。聖書学者の余が言うのだから間違いないぞ。しかし、それでも人殺しや傷害ではないから罰さないというのがアメリカだ。言葉の苛めは「人殺し」になることもあるんだけどね(マタイ伝15章17−18節参照)。まあ、それは聖書的判断か。
そうそう、その気違い教会の名前を教えておくね。ネットでじゃんじゃん出てくると思う。Westboro Baptist Church ってんだけど、他のバプテストが付く教会には迷惑な話だよね。くそボロ教会め!