Comments by Dr Marks

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東大生の資質と東大教授の資質(コメントできないブログへのコメントの続きとして)

どちらの資質も悪いとか授業内容もよくないと批判するためではなく、今までの私のコメントが誤解されているふしもあるので、少しく彼ら(学生と教授)のために弁護する。あくまでも少しだが。

教育学部東洋という先生がいた。「とうよう」ではない、「あずま・ひろし」教授だ。ネットで検索してもなかなか現れず、今この先生を知っているのは私のような年寄しかいないのかもしれない。ともかく、彼が茶飲み話でこう言った。辺りは東大生か東大関係者ばかり。「世間では東大に入る高校生は、がり勉をして入ってくると思っているが、ほぼ半数の学生はたいした勉強もせず、高校時代は好きなことをして授業中しっかり勉強してきただけだ。」

しかし、そのためにはそれだけの授業をしてくれる高校の出身者である必要もあるな、とそのとき思った。では、そうして入ってきた高校生が、東大ではどのような学習環境に置かれるのだろうか。

まず、その前に、どんなによい環境を用意しても、既に燃え尽きたような学生グループは、そのあと東大の教育が何であれ、享受する機会が少なくなることは予想できるだろう(もちろん全部が全部ではない)。4年間それなりに過ごして何の進歩もなく卒業することになるか、太宰治ホリエモン氏のように入っただけで何の薫陶(←東大にはもったいない単語?)を得ることもなく去ることになる。もちろん、卒後発奮する人もいるし、がり勉をやってみたという自負がその後の社会生活で活躍する場を得させる人もいるが、唯一の肩書が東大卒で人生を終える人が少なくないことも想像に難くない。

さて、その他の余力がありそうな学生はどうだろうか。もともと余力があって入ってくるのだから、よい刺激を与える先生や同級生に接すると何でも容易に吸収してしまう。この辺りで学生間に「格差」が始まり、天才とただの秀才の分化が判然としてくるのである。しかし、このことに気づくのはまさに秀才以上のレベルの学生であり、一般の学生は誰が天才かに気づきもしないだろう。

以上をまとめると、猫猫先生がタクシー会社に、東大出たような話のわかる奴はいないかという趣旨の電話をしたが、出たからといって話がわかるとは限らない。しかし、多くの秀才とまれに天才がいることも確かのようだ。

教授の資質と東大の授業についてだが、私の経験は本当に限定された範囲なので、このマンモス大学の全体に敷衍することはいささか憚れる。その範囲内だと思っていただきたいし、このブログの読者に資するよい情報があったら、自由に気軽に寄せてほしい。また、私の誤解についての訂正・叱責も同様である。

ある概論に類する本郷の講義に出た。受講者は30人ほどだったと思う。ものの30分も話した後で、この教授であるT博士は突然驚いたような表情で沈黙し、ぽつんと「こんな講義は不必要でしたね」と言うではないか。T教授は地方の大学教授から古巣の東大に母校の教授として戻ったばかりだった。恐らく、どこかに書いてあるような学説史を語っているので、学生が不満げな顔をしていると勘違いしたらしい。買いかぶりの大誤解である。我々にはその講義が必要だったので続けてもらった。これだけ学生の反応によく注意し、自分の講義内容を自省する先生がいたことも事実だ。どうやらT博士は、粒が揃っていた昔の東大生のレベルで我々ボンクラ頭を見ていたらしい。教授室に何かの用で好き勝手なことを言いにゆくと、私の無駄話に対してさえ、帰るとき「また教えてくださいね」と言ってくださった。乞われて後に新設大学の学長になったと聞いた。

以下の話は頭文字も入れず、意識的にXYで語る。X助教授の演習で私の拙い発表が終わった。この助教授は、私の拙さが一つの原因とは思うが、いきなり批判から始め、理解できなかったからか、発表の真意には一つも触れてくれなかった。それに対する私の返答も、口下手と内向が災いしてしどろもどろ。顔は赤くなるし、傍から見ていたら相当に惨めに見えたに違いない。(←これってUBCでの猫猫先生の逆ヴァージョンですか?との茶々あり。そうだよ、文句あるか。)当時のX助教授は、駒場から本郷に移って新進気鋭とみなされていたから、自信満々舌鋒容赦もない。重苦しい空気が流れる。すると、博士課程から助手を拝命したばかりのY先生が立ち上がり、私の言いたいこと、いやそれ以上のことを理路整然と説明してくださり、それに対してX助教授は何も言えなかった。その後、X助教授はそれほどでもないらしい。今、Y先生は、都内の私立大学の教授らしい。(今思ったが、そのとき私はアメリカ流に一部ビデオをまじえて発表した。その頃にしてはめずらしく、生意気な発表と思われたのかもしれない。)

以上をまとめると、当たり前のことだが、教育ができる先生とできない先生がいることは東大でも同じである。ろくなシラバスも配れず、従ってろくな教育計画もなく、ろくな講義準備もしない東大教授もごまんといる。勝手な想像だが、そして手前味噌になるが、学位を得てきた得てこないは別にして、北米である程度修行してきた東大教授は大学教育の何たるかを知っているような気がする。学識があるからといって教授できるものではない、研究できるからといって教育できるわけでもない。前に、本家のブログで書いたが、北米の学会では、教授法やカリキュラム自体が分科会のテーマとなるのである。昨年のSBL(←言っておくが、これは聖書学の学会であり、教育学の学会ではない)で私は、大学院教育のセッションに参加して教えられることが多かった。まさに目から鱗がたくさん。

寡聞にして知らないだけかもしらないが、日本の学会なら、教授法などという低級なテーマはちゃんちゃら可笑しくって学会のセッションにはなるまい。しかし、どうやって一生懸命育てるか。それは学問の一つ一つのテーマ同様、学者の重要な責任である。東大のいい教授にいい学生が教えられるとどうなるか。やはり、東大はいい学校だ、となる。ろくでもない授業をする教授にろくでもない学生が教えられるとどうなるか。「東大」とだけ顔に書いているバカ、となる。

そういえば、日本人は誰でも彼でも評論家で、文学はもちろん、音楽、映画、美術、etc. 果てはサブカルチャーとやらにまで物申す。なにしろ近頃はみな大学出てるもんね。そんな中から大学教授になる者も出るのであろうが、文学「者」なんて、本来は金持ちの道楽なのに、貧乏人まで「文」学者になろうとするから、大学内であーだこーだと醜い争いになるのだろうね。だって、金持ちは昔から喧嘩しないって決まってるもん。でしょ?

えーと、右上の写真は hatena が只で掲載してくれる写真なので小さくて何もわからないので困った。手前のほうの禿頭ばかりが目立つが、壇上で何でも来い、という顔付きで(←そんなの小さすぎてわからん)立っているのが Dr. Marks。しかし、まあ、どこが introvert でいらっしゃるんでしょうねー。単なる、目立ちたがり屋じゃないの。Introvert reversal とでも名付けるか、この変な性格。

『連載コラム 文学者 小谷野敦の禁煙ファシズム闘争記』!!!

DrMarks2007-10-02


これから頼まれたことをしようとして、だけど、したくないものだから『猫猫』をクリックしてしまった。先生がここを読めというわけだから、クリックして読み出した。私は自分では吸わないが、タバコ吸いのU牧師が教会員に苛められているのを弁護したほどだから、いたってタバコのみには寛容。普通に読み出した。ふむふむ、なるほど。カリフォルニアで車から吸殻をポイしたら、最低1000ドルの罰金なのに、日本じゃ平気で捨てるのだ。そんな喫煙者はよくないわな。ふむふむ、誰が書いているのかしらん。(ト書き:視線がが末尾に至る。)えっえー、猫猫先生が書いている! しかも肩書一杯付けて。日付は10月1日。おおー、この日は City of Beverly Hills が市内のレストランを前面禁煙にしたまさにその日!

こんなことばかりしていると細君に叱られる。さあ、やることしよーっと。あっ、そうだ。養老先生って、もうメントールの煙草は吸っていないの? ついでだが、猫猫で「悪魔の論理」となっているところは「悪魔の証明」(probatio diabolica)で検索したほうがいい。

追記:上記のとおり、「悪魔の論理」→「悪魔の証明」ですが(猫猫先生直しました)、Dr. Waterman がスコットランド式未証明というのを紹介しています。限りなく黒であっても無罪というやつです。ご一読あれ。