Comments by Dr Marks

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 第4章 馬耳東風

 バリーは、昼食の自分の皿を押しのけると、食堂のイスに寛いでいた。確かに、オライリーの診療の仕方には改良の余地があると思う。しかし彼は、静かにゲップをしながら考えた。ミセス・キンケードのご馳走がこのまま続く限りは、オライリーの一風変わった振る舞いは我慢しておこう。
 「往診だ」と、テーブルの向かい側から声を掛けながら、オライリーが何やら紙片を見つめている。「診療所に来れないほど病気の重い者が電話してくるのを、キンキーが朝のうちにリストにしてくれたのがこれだ。」
 「朝食時に先生に渡したものですね?」
 「その通りだが、そこにその後も電話してきた者の名前を加えることになっている。」
 オライリーは、その紙片を折り畳むと、ツイードのジャケットの脇ポケットに押し込んだ。「今日はついてるぞ、一軒だけだ。ケネディー家だ。」
 彼は立ち上がった。「さあ、行くぞ。今夜はテレビでラグビーなんだ。キックオフに間に合うように帰って来たい。」
 バリーは後を追って階下に降り、ミセス・キンケードのいる台所を過ぎる。彼女は洗剤の入った水で溢れる流しに肘まで浸かりながら、彼らに笑顔で挨拶しながら言った。
 「このロブスターを夕飯にしましょうか、先生?」
 「そりゃあ、豪勢だね、キンキー。」
 バリーも、ご馳走が期待できると喜んだ。
 「キンキー、今晩は婦人会の集いがあるんじゃなかったのかね?」
 オライリーは、ふと立ち止まって聞いた。
 「ええ、そうよ。」
 「じゃあ、ロブスターは冷めていても構わんよ。サラダを少しばかり添えて置いといてくれ。早目に帰りなさい。」
 オライリーは、先を急ぎ、彼女の謝辞を聞く間もなく裏手のドアを開けると、バリーを先に外に出した。
 裏手はフェンスに囲まれた広い庭で、バリーが寝室から見下ろした所だ。左手の生垣の上に野菜が育っている。リンゴの樹が何本か、まだ熟していない実をたわわに付けて、よく手入れされた芝生の上に覆いかぶさっている。バリーは、コックスのオレンジ・ピッピン種とゴールデン・デリシャス種があるのはわかった。背の高いクルミの樹が遥か離れた庭の隅にあり、垂れ下がった枝が犬小屋への日照を遮っていた。
 「アーサー! アーサー・ギネス」とオライリーが叫んだ。
 大きな黒いラブラドール犬が、犬小屋からつんのめるようにして芝生に飛び出すと、体が左右に九十度も曲がるほど尻尾を激しく振って、オライリーに飛びついた。
 「よしよし、いい子にしてたかね?」と、犬の横腹をポンポン叩きながらオライリーが言った。
 「アーサー・ギネスと呼んでるんだ。アイリッシュ犬だし、黒いし、なにしろ頭がでかいからね。まさに濃厚なスタウト・ビールだろう。」
 「アルーフ」とアーサーが唸った。
 「これ、アーサー・ギネス、ラヴァティー先生に挨拶しなさい。」
 「アーフ」と吼えるや否や、アーサーはバリーにじゃれつきだした。
 「アラーフ」とすがりつく犬を、バリーは必死に追い払う。
 「アーサー・ギネスは、アルスター地方でも最良の血統の猟犬だよ。」
 「狩猟をなさるんですか、オライリー先生。」
 「フィンガルに行くんだ、フィンガルだよ君。お察しの通り。アーサーと私は終日カモ猟を楽しむんだ。そうだろアーサー?」
 「ヤーフ」とアーサーは返事しながら、前足をバリーの足に絡め、狂った杭打機のようにピョンピョン跳ねた。興奮した獣を押しやろうとしてうまくいかず、止めろ、こん畜生、とバリーは思った。止めないようなら、お前の子孫はラブラドールが混じっただけの馬鹿雑種になってしまうぞ。「お座り、アーサー」とも言ってはみたが、ますます激しくなるので黙っていたほうがよさそうだ。
 「まあ、そのうち慣れるさ」と言いながら、やっとオライリーは、「戻れ!」と小屋を指さした。
 アーサー・ギネスは別れ際の一打を残して去り、自分の住み家のほうにふらふらと帰って行った。
 「人懐っこい犬ですね」と言いながら、バリーはよそ行きのズボンの泥を払ってみるが、おいそれと取れはしない。
 「まあ、あいつが君を好きならね。もっとも、ありゃ、間違いなく君が好きだ。」
 そう言って、オライリーはまた歩き出した。
 「そんな筈があってたまるか。」
 バリーは、裏庭は避けようと心に決めた。
 「車庫はこっちだ。」
 オライリーが裏門を開けた。小道を横切ってから、おんぼろの小屋に近づき、引き上げ戸を下から持ち上げた。バリーが中をのぞき込むと、黒くて長いボンネットのローヴァ―車があった。少なくとも、ここ十五年は製造されていない型だ。
 オライリーが乗り込んでエンジンをかけた。車は文句でもあるかのように唸ったかと思うと、バチバチと音を立て、更に爆音を轟かす。バリーも助手席に飛び乗った。オライリーはギアを入れると小道にハンドルを向けた。バリーは口を結んだ。車は犬の湿っぽい悪臭とタバコの煙の臭いで満ちていたからである。彼はすぐに窓ガラスを下げた。
 オライリーは左折して道路に出て家を後にすると、傾いた尖塔のある教会を通り越し、バリーバックルボーの大通りを通り抜ける。バリーは周囲を眺めた。白塗りのテラス・ハウス、一階だけのコッテージ・ハウス、昔からのわら葺きだったり、スレート屋根だったり、そういうのが並んでいる道だった。交差点に差し掛かって赤信号で止まった。遠くにペイントが剥げている大きなメーポールが左に傾いて立っているが、巨大な床屋の看板柱に見えた。
 「ここでのベルテーン祭りは見ものだよ。ほら、昔からのケルト族のメーデーさ。」
 その柱を指さしながらオライリーが言った。
 「かがり火、ダンス、処女狩り、・・・もっとも一人か二人でも残っていればの話だが。地元民は容易に異教のご先祖様をないがしろにはしないもんだ。お祭り騒ぎができるとあらばね。」
 エンジンの速度を上げながら、道の右手を指し示して説明した。
 「この道を下ると海岸に辿り着く、反対に左手を上っていけばバリーバックルボー丘陵というわけだ。」
 バリーはうなずいた。
 信号が黄色に変わった。オライリーは、クラッチを滑らしながら、エンジン音を轟かせて前進した。
 「黄色の信号は単なる旅行者用だよ。」
 彼は別の方角から来るトラクターになど頓着しなかったので、トラックは連結車両を横にひねりながら交差点で立ち往生することになった。
 「試合に間に合うように帰るぞ。バリーバックルボーのときめく心。」
 片手を振り回す意味のない仕草を繰り返しながらつぶやいた。
 二階建ての建物が続く通りになった。八百屋、肉屋、新聞販売店、更に一段と大きな建物があって看板が道に突き出ている。屋号は「ブラック・スワン」。すると、バリーは見慣れた人影を発見した。左足首に包帯を巻いて、びっこを引きながら、その店の入り口に向っている。
 「ガルヴィンの奴だ。畜生、ギネスを飲みだしたら湖まで飲み干すぞ、あいつは。」
 そうオライリーが言うので、バリーは「ブラック・スワン」の店内に入るガルヴィンを首をひねって見つめた。
 「あいつは放っておけ。」
 ギアを高速に上げながらオライリーが話し出した。
 「この辺りを見せておこうと思ってね。ほら、この道を行くと、私たちはベルファストに向かうことになる。右を見てごらん、わかるだろう? いつでも列車に乗れるぞ。」
 バリーが右手に目を向けると、盛り上がった土手に沿ってディーゼル列車がゆっくりと動いているのが見えた。これは面白いと思った。休みの日はあれに乗ろう。車で行くよりは安いに違いない。医学部時代の友人に会いに行ける。だって・・・。
 するとその時、オライリーが急ブレーキをかけたので、彼は前につんのめった。
 「糞牛め!」オライリーがうなった。
 白黒まだらで柔和な目をした牛が道の真ん中にいる。周囲にまったく無頓着、道の真ん中をのっそりと、悠長に口を動かし反芻しているのだ。
 オライリーが窓を下げ降ろした。
 「シーッシ、動けったら、こら馬鹿牛、シーッシ!」
 牛は頭を下げて、哀れっぽく一声「モー」とは鳴いたが、一寸たりとも動かない。
 バリーは助手席に深く座ったままオライリーを観察した。既に見て来たとおり、今に癇する。オライリーは席を立ってドアをバンと閉めると、牛に向って歩き出した。
 「おいこら、馬鹿牛、こっちは急いでんだ。」
 「モー」というのが牛の返事。すると、
 「よーし、そのつもりなら」と言って、オライリーは腕一本で角の片方をつかんで引っ張った。バリーは驚いた。牛が二歩前進した。明らかに頭部に加えられた力に逆らえないのだ。
 「さあ、動け、糞野郎!」オライリーが吼えている。
 牛は耳をピクッと動かして頭を下げると、道路の端に飛びのいた。オライリーは車に乗り込むと、ドアを閉めながらギアを入れるやいなや、アスファルトにタイヤをキキーッとこすって発進した。
 「まさに、こん畜生だ」オライリーが呟く。
 「動物だよ。まあ、田舎医者の楽しみでもあるがね。君のどうやって対処するかそのうち慣れなきゃね。」
 「わかりました」とバリーが返事して、
 「結構」とオライリーがうなずく。
 しかし、オライリー先生の言うことが本当だと気づかされるのは、この少し後になる。

        * * *

 オライリーは一声唸るとギアを力任せにあちこち入れた。バリーはエンジンが唸りながら文句を言っているのがわかった。すると、後輪のタイヤが駄々をこね、空回りばかりしている。
 「こん畜生め、歩くしかないぞ。車から出てくれ。」
 そう言ってオライリーは、体をかがませると、後部座席の黒い鞄とウェリントン・ブーツをひっつかんだ。
 バリーも車外に出た。ところが、舗装してない道の轍の溝に足をすくわれくるぶしまで埋まってしまった。ぬかるみから交互に足を引き抜くと、びしゃびしゃのまま歩いて、草のある道の端に逃れた。なんてことだ! 靴もとっておきのズボンも汚くなってしまった。もっとも、黒ビールの染みは元々ついてはいたのだが。さて、これを皆ドライクリーンイングに出せば幾らぐらいかかるものか。
 バリーが首を回わすと、轍の道の先に一軒の農家を見つけた。
 「先生、あれが患者の家ですか。」
 「ああ、あれがケネディーんとこだ。」
 「どこか、あそこまでの別の道はありませんか。私の靴が・・・。」
 「いつだってゴム長は必要だよ」と言って、オライリーは自分のウェリングトン・ブーツを指さした。
 「靴なんて心配することもなかろう。」
 「でも、この靴は高かったんで・・・。」
 「おやおや、まあまあ! よっしゃ、畑を横切って行こう。」
 バリーは、オライリーの鼻に少しばかり、落胆の印があるのを見て取った。
 「さあ行くぞ。あと三十分で試合が始まる。」
 オライリーは片手にカバンを下げたまま、痛い針のある黒スモモの生垣に付けられた錆びた五枚板のゲートをこじ開けて、畑の中に大股で入って行った。
 「入ったら、その血まみれのゲートは閉めておけよ。」
 オライリーが、振り返って叫んだ。
 バリーはゲートを引っ張って閉めるのに手こずった。門柱に針金の輪を引っかけてゲートが開かないようにするのだが、文字通り、その際に手がこすれて傷ができ血が出て来た。彼は傷口の血を舐め、じっと絶望的な靴を見下ろした。たった一足しかないよそ行きの靴。
 オライリーが怒鳴った。
 「おい、ぐずぐずしてると日が暮れないか。」
 「こん畜生」とバリーは呟やきながらオライリーが立っている方角に向かった。畑の草は膝まであり、緑の毛の生えた種がある。それに湿ってる。いや、濡れている。一生懸命前進すると、ズボンの裾にその種がまとわりついているはずだし、それに、脛がだんだん湿って来た。ああ、せめて草の露が泥を洗い落としてくれれば。
 「いったい何してたんだ。」
 「オライリー先生・・・」答える代りにバリーは、これ以上の脅しをされまいと話し出した。
 「・・・これでもできる限りの速さで来たんですよ。」
 「はあ。」
 「それに僕の靴もズボンも台無しじゃないですか。」
 「何だって、君はブタを知らないのか。」
 「残念ながら、ブタが僕の着ている物と何の関係があるのか存じませんね。」
 「勝手にしろ。だけど、もうそこに来てるじゃないか。」
 そう言うと、オライリーは急いで歩き出した。
 バリーが驚いて立ち止る。小さなカバの形のピンクの物体が彼らに向って進んで来る。そいつはアフリカにいる転がるように歩く動物に似てはいるが、バリーが考えるように、バリーバックルボーでは見られないのだから、問題の生き物はブタに違いあるまい。その眼は、もうかなり近くまで来ているのでわかるのだが、赤くて、はっきりと悪意に満ちていた。バリーは、駆け足でオライリーに向って走り出し、ゲートと畑の突き当りの中ほどの彼に追いついた。
 「あれはブタに違いないです。」
 「よくわかったな。」
 オライリーは歩幅を伸ばしながら言った。
 「どこかで読んだが、家畜化されたイノシシは醜くなるそうだ。」
 「醜い?」
 「ああ」、オライリーは大きく息を吸って答えた。
 「血に飢えた大きな歯がある。」
 オライリーは、なおさら歩幅を最大にして歩き、妥当なバリーとの間隔をまた広げてしまった。
 バリーは、金メダルに近いオリンピックの競技者が、後続を振り返ったがゆえに逃した者の少なからざる例を知っていたが、どうしても振り向かざるをえなかった。獣が優っていた。そいつが「血に飢えた大きな歯」を使うつもりなら、最初に襲うのは最初に出会った者であるのは想像に難くない。
 バリーはダッシュした。前方の生垣から十ヤード離れた位置でそろそろ疲れが出たオライリー先生を追い越せた。
 ミセス・キンケードの霊験あらたかなステーキ・アンド・キドニー・プディング〔訳注一〕のせいで、ますます先生の耐久力が弱まったに違いない。バリーは、低いゲートを通り越したときに、そう思った。
 そのとき、すんでのところで鳥打帽をかぶった小男にぶつかるところだった。男は微笑みながら農家の庭に立っていた。この男にバリーが話しかけるよりも先に、午後の静寂を粉々にする、何かを粉砕し引き裂くような音がした。オライリーが、針のある黒スモモの生垣を、まるでノルマンディー上陸作戦のアメリカの戦車が森を潰しながら進むかのように押し倒して入って来た。
 彼は立ち止ると、ツイードのスーツの破れ目を調べ、苦しい息を整えようとした。それから彼は、バリーにとっては初対面の、険しい細い目をしているが心底笑っている鳥打帽の男に歩み寄った。
 激しい運動で、オライリーの頬はまだ火照ったままなのに、鼻のてっぺんだけは白い。
 「ダーモット・ケネディー、いったい何がそんなにおかしいんだ」と怒鳴った。
 返事はない。その代わりケネディー氏は、お腹を抱えて笑い転げ、止まらない笑いの合間合間にやっと「呆れたもんだ・・あれは見ものだったよ・・おかしくって」と息切れしながら言った。
 「ダーモット・ケネディー!」
 オライリーは一メートル八五センチの体躯を伸ばしてもう一度怒鳴った。
 「お前は文明人にとっての害悪だ。いったい、どういう了見で人食いイノシシを放し飼いにしているんだ?」
 笑い転げていたケネディー氏も背筋を伸ばすと、ズボンのポケットからハンカチを取り出して、にやにやしながら目の涙をぬぐった。
 「いったい、どういう了見かと聞いているんだ!」とオライリーが吼える。
 ケネディー氏はハンカチをしまって言った。
 「あれはイノシシなんかじゃないですよ、先生。あれはガートルードという名で、ジーニーが飼ってる雌ブタです。あのブタは、ただ鼻先をこすりつけたいだけです。」
 「ほー」とオライリー
 「なるほど」とバリー。
 バリーは、予定が遅れているのでオライリーにどやされるのを承知で言った。
 「動物というのは・・あっ、先生、間違っていたら、そう言ってくださいね・・田舎での診療の楽しみの一つなんじゃないですか。だから、先生はああいうものの扱いに慣れなきゃいけないと思うんです。」
 「その気になれば先生にだってできるさ。」
 そう言ってケネディー氏は真顔になった。
 「だけど、先生、それは百姓の仕事です。お医者様は病人らに目をかけて・・・。」
 彼は、そこまで言うと、戸惑いながら自分の長靴に目を落としてから、言葉を継いだ。
 「先生をこんなところまで引っ張り出して、まことに申し訳なく思っています。本当です。しかし、私どものジーニーがとても心配なんです。家に入って彼女をじっくり診察していただきたく、お願い申しあげます。」
 
 〔訳注一〕steak-and-kidney pudding は賽の目の牛肉と肝臓をラードで調理しており、高カロリーのソーセージ・プディング