Comments by Dr Marks

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ポール・サガードの「脳と人生の意味」とマーティン・ハイデッガーの「存在と人生の意味」

Deepbluedragon氏のブログにお邪魔したら(パソコンの具合が悪いそうで心配だが)、認知科学者=認知哲学者サガード(Paul Thagard)の授業シラバスが話題になっていた。この場合、「脳」というより「人生の意味」に力点がある。どのようなことを科学していっても(=哲学していっても)、人は人生の意味の中で行動し生活することから抜け出すことはできないのかもしれない。

確かに、deepbluedragon氏が言うように、一見、疑似科学的ソフトなテーマに思えるが、実は、真剣なハードなテーマでもある。恐らくサガードは、安っぽく宗教や倫理に近づけてみたり、茂木の馬X野Xみたいに「お子さんの教育にあてはめてみましょうね」などとは言わないだろう。

と思いながら、この学会で購入した S.J. McGrath の Heidegger: A (Very) Critical Introduction (Eerdmans, 2008) を眺めていた。この著者は、若いが先にハイデッガーと中世哲学に関する著書も出している。バックグラウンドとしては神学の立場から、各論的には存在論の立場からハイデッガーを学位論文にした人らしい。

例えば、ハイデッガーにとって「存在(Sein)」って何ですか、と学部生に問われると、「意味あることの地平(horizon of meaningfulness)」と答えてしまう先生がいる。しかし、厳密なところ、ハイデッガー実在論者(realist)でも観念論者(idealist)でもないし、彼が存在的(ontisch、個々の存在に関わる)と存在論的(ontologisch、個々の存在を超えた存在そのものに関わる)という区別をしたとしても(『存在と時間』冒頭の注3参照)、あくまでも彼自身の便宜的区別にすぎない。ましてや実存や現存在(Dasein)が先立って存在に至るわけでもない。だから、性急な答は絶対にできないとマクグラースは言う。

しかし、マクグラースは、ハイデッガー解釈の初期段階においては以上の区別や「意味あるところの地平」というような説明は間違いではないとも言う。私は、(学生の)ハイデッガー解釈の初期段階だけではなく、ハイデッガー自身の哲学の初期段階は「意味あるところの地平」の探究であったような気がする。いかなる深遠な学の探究も、結局のところ、探究する者の「人生の意味」に関わるのではなかろうか。だからといって、学の探究を安易な応用(宗教、倫理、教育等)に結びつける動機であるわけでないのは明白だが。

以上は、deepbluedragon氏に触発され、マクグラースの同書(p. 59−61、とくに60)を参照した感想あるいは独り言。