Comments by Dr Marks

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食うための本と読んでもらうための本

内田樹氏のブログに1週間に一度くらい行くようになったが、今日は読み出してみて、議論はしないとか初めから喧嘩ごしなので、何だまた内田流トンデモ節かと思ったが、本を出す動機と著作権(この場合は発行権)について書いていることは痛快だった。本を出す者はケチになってはいけない。できればどんどん無料で自分の著作を配りたいほどなのだ。しかし、自分の本でも出版社から著者割引で買うのも結構高くて、著者だからといっておいそれと只では配れないのが実情だ。(著者だから只でくれるだろうなどと思っている人はこの事情を知らない。)

読んでもらうためにはネットで内容まで検索できる世の中になったことは喜んでいる。従前より、所属する大学からデータベースに接続して雑誌論文などを入手していたが、これは所属機関が一括して著作権料を払っているからだ。しかし、今ではかなりのものが普通に無料で読めるようになった。

だからといって、本が売れなくなるわけではないと内田氏は言う。確かに。ただ、売れにくくなることは売れにくくなる。しかし、普通、研究者が本を買うのは自分が手許に置きたい新刊か、所属図書館に配架になる前に読みたい新刊か、図書館では受け入れない本か、近場の図書館には所蔵していない古書を見つけた場合である。(古書が入手できなければ、そして時間的余裕があれば、インターライブラリーローンを利用する。)それ以外はほとんど図書館利用であって、自分の本として所有する必要はないし、膨大な書籍を渉猟するので個人が所有しきれるものではない。

一般の人は、調べもの的に本を読むのではないから、気に入ったものはやはり買うだろう。むしろ、コンピュータで読むよりは本を手に取ったほうが楽しく楽に読めるので、ネットでの公開はむしろ宣伝となるはずである。読んでしまって買わない人が出るリスクよりは、一部を読んでみて買う気になる人の現れるメリットのほうが大きいはずである。

おっと、また忘れるところだった。標題だが、内田氏も初めの書籍は自費出版だったそうだ。読んでもらうためで食うためではない。しかし、学者の場合は業績ということがあるから、読んでもらうことが食うためであることもある。いつも言うが、出版史的に言うと、自費出版が評価が低いということはもともとない。古今東西の良書の多くは自費出版なのだ。(なお、公的助成を受けて出す本は自費出版であっても自費出版とは言えないかもしれない。)

研究者の場合、読んでもらうための本が食うためにもつながると書いたが、逆のことも言いたい。文筆業者は食うために書く。しかし、彼らが食うためにだけ書いているかというと心得違いも甚だしい。今まで多くの著者に会ったが、もちろんたまには食うためだけの本をものすることもあろうが、彼らはやはり読んでほしくて書いているはずだ。これは人間の自然な欲望のような気がする。そして、もちろん、読んでもらいたいものは自分がよかれとするものであるから、損得抜きで心血注いで書くものだ。