Comments by Dr Marks

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バート・イーアマンの新刊 "Jesus, Interrupted" 紹介Part(3)最終回

中途半端にしていたので、一応終わりにしておく。既に記したように、この本は今までとは一味違う。振幅の激しい人だから、ちょっと今は正気になった(笑)わけなのかもしれない。学部生の講義の終わりに、学生に授業を振り返って書いてもらう(多分、成績には組み入れない)意見書で始まる最終章では、聖書学の歴史的・批判的学問の成果が(彼の場合のように)不信仰をもたらすというのではなく、(多くの聖書学者がそうであるように)信仰を強める場合もあるし、彼にとっても聖書は最も魅力ある「書物」であることが語られている。

そのような私個人の希望的観測による評価は別にしても、4章から7章は、神学を、あるいは聖書学を正規に学ぶ機会のなかった人への一人案内として良書だと思う。惜しむらくは、次のステップでの読書案内が少ないことだが、これは本人(イーアマン自身)の気に入ったものが少ないせいでもあろう。その少ない中で、彼の恩師である故メッツガー博士(Bruce M. Metzger)、そしてカトリックの聖書学者、故ブラウン師(Raymond E. Brown)とマイヤー兄い(John P. Meier)を挙げている。私も大好きな学者たちだ。なお、彼が影響を受けた学者としてのバウアー(Walter Bauerのほうで、Bruno Bauer だかんね、間違えんといてや)にも紙幅を費やしているが、バウアーは一人で読んでも仕方がないだろう。

バウアーについては、現在の正統よりも異端のほうが原初に近いキリスト教であるというテーゼの持ち主として語られるが(P213−216)、彼の場合は、信仰箇条の成立や教会会議がもともと正統を持ち合わせていたのではなく、叩き出しによって練り上げられたものという面では正しくとも、逆にキリストの使信の不明確な面が異端の表出より洗い出されたとしても見るべきなのであるから、その辺りの認識の相違となる。この点は、まったくイーアマンの場合もそうで、批判される余地があることになる。

ただ、今回のイーアマンは、最終章のみならず全体に、聖書と実際のキリスト教が乖離しているということが、聖書をないがしろにして(あるいは聖書の不備に目をつむって)キリスト教を捏造したのではなく、(従来の早計な学者のように、キリストの使信をパウロが勝手に書き換えたと断言するのではなく、パウロにもキリストの原初の使信があるように)行間を埋める神学の役割を評価しているのが面白い。なお、第5章の「嘘つきか、気違いか、主か」というフレーズはルイス(C.S. Lewis)のものだが(P142)、彼の本は好き好きだろう。学問的価値は限りなくゼロに近い(というかゼロそのもの)。

イーアマンのこの本は学術書ではないからか、編集がサボったからか、索引がなくて不便だ。メモを取りながら読むような本ではないから(低級な本ということでは決してないが)、後でこの記事を書こうとして難儀しましたわいな。数日前に書いたチャンチャンバラバラの話もこの本にあったのだが、もう探すのめんどっちい。え〜と、マイヤー兄いの第4巻が今年になって出たんですわ。元々一般的な本ではないから、高いうえにアマゾンに注文してもなかなか来ない。今までの3冊の内容について、明日の記事でマイヤー兄いにYoutubeで直接説明さしちゃるつもりですたい。

寝る前に言い忘れたことを思い出した。イーアマンはボグロム(東欧のユダヤ人虐殺)が聖書の反ユダヤ主義の部分と関係があるようなことを不用意に書いているが、それはないだろう。別の動機だ。それに(イーアマンも認めているが)聖書は反ユダヤのみならず親ユダヤの部分も多い。また、反女権の部分だけでなく、当時としては、どの社会よりも女性を敬っている部分は枚挙に暇がないほどだ。