Comments by Dr Marks

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コメントにならないコメント−14 (1. 生誕年のないペテロの手紙、2. マルコの種本とマルコのオリジナル、3. ネットでの偽書)

今、650円とか730円とか810円という、高々160円の差くらいでタクシーに文句をつけているT大O教授のブログを見てしまった。タバコ吸わせろとタクシー協会に文句をつけている猫猫先生なら、文句の是非はともかく、利用者の希望要望ということで理解できる。しかし、この教授は何だ。教授の給料はそんなに低いのか、それともあんたがせこいのか。今回日本で何度もタクシーを利用したが運転手さんには感謝感謝で、かならず料金の他に心づけを渡した。日本と諸外国の違いだから仕方がないが、多少はするのが筋だろう。(普通、料金の10%から20%。)だいたい、せこい奴はタクシーになんか乗るな。歩け、歩け! しかも、運転手さんを疑っている。そのくせ領収書はしっかりもらってるんだろうな。

近頃、YouTube に凝っている。そこでエンタテインメントを心がけて、Peter, Paul, and Mary を探してみた。驚いたのは、彼らがちっとも成長していないことだ。成長していたのは Mary だけ。驚くべき成長だ。
→(http://www.youtube.com/watch?v=UGLfIoNAsso&feature=related
しかし、これだけでは後味も悪かろう。37年前のものはこれだ。それなりに何となく感動する
→(http://www.youtube.com/watch?v=q8U6Oh9uSY8)   ↑以上は後付け記事です。↓が本記事。 


1. 生誕年のないペテロの偽の手紙

昨日は大雑把ながらパウロの生誕年は、西暦5年と10年の間を取ったのか、ローマ・カトリック教会は8年にしているらしいという話を書いた。ベネ16法皇様(またの名ラッツィンガー博士)は、神学者であって聖書学や聖書考古学が専門ではないから、本当に5と10の真ん中を取って8にしたのかもしれない。

じゃあ、ペテロはどうなのかと聞く人がいる。結論を先に言えば、そんなこと土台無理。実を言うと、イエスを含めて大体でも生誕年がわかっているほうがめずらしいのだ。因みに、イエスの生誕年は紀元前8年から4年の間と業界ではしている。パウロはたまたま書簡がたくさん残っているし、使徒行伝などの記述に歴史上重要な人物との接点があるため、年表が作りやすいだけである。それでも、何か新しい考古学的発見でもなければ特定が困難なのは同様である。

ペテロは、多分、パウロより「じじい」だったが、確実にそうとも言えない。彼は、福音書使徒行伝に記述があっても、パウロのようなおしゃべりでもないので、パウロほど詳しいことはわからないのだ。現存する書いた手紙の数もまるきり違う。パウロの書簡とされるものの幾つかはパウロのものではないとされるが(「幾つか」としてはっきり言わないのは学者により判定がまちまちだから)、たった二つしかないペテロの手紙の片方(ペテロ第二の手紙)などは偽物だ。

偽者によって書かれた偽物の文書ではあるが、この場合は単なる偽(pseudonymous)なのであって、主としてプロテスタント聖書学者が言うところの、特定の「偽書=Pseudepigrapha」のことではない。この「偽書」というのは有名人の名を騙って書かれた書き物のことであるが、聖書正典(Canon)や第二正典(続編、Deuterocanonical literature または Apocrypha)には含まれない、別の書物の一群である。

じゃ、お前は、「新約聖書27巻に堂々の1巻として納められ、正典であらせませられる(なんじゃ、この日本語)ペテロ第二の手紙を偽物というのかぁ〜」。お腹立ちはごもっとも。しかし残念ながら、教派や立場は違っても、業界の聖書学者のほとんどが聖ペテロの手になるものではないと結論づけている。日本語で読んでも第一の手紙と第二の手紙の違いにある程度気づくのだが、ギリシア語の語彙と神学思想を検討するとなお明らかである。

例えば、日本語の聖書(新共同訳)で「信心」と訳されている単語 ευσεβεια = eusebeiaだが(ペテロ第二の手紙1:3,6,7; 3:11参照)、使徒行伝で一度出てきたほかはテモテの手紙に何度か出てくるにすぎないギリシア思想(哲学)的用語で、「神聖な理想」あるいはそれに関わる生活を意味する。(旧約聖書七十人訳にはもっと出てくる。)こんな言葉は、パウロと同じく西暦65年頃に没したペテロの口から出てくると思うのが不自然である。なお、テモテの手紙(第一、第二とも)は、ペテロ第二の手紙のように明白ではないが、パウロの真筆であるかどうかが疑われている文書である。

それでは何ゆえ正典の地位がゆるがないのか。それぞれの教会、教団、教派の事情は異なっても、この文書(ペテロ第二の手紙)が、時代的背景としては勃興した偽教師への警告として必要なものであったし、今日も使徒ペテロ以来の教会的信仰を伝えるものとしては、恒久普遍の内容であるからだろう。

2. マルコの種本とマルコのオリジナル

だいぶ長くなってしまったな。読者は長くなると読まない。しかも、聖書の話なんて。簡単にしよう。えーと、上の話は意外と結論が出しやすい話の例として出してみた。こちらは結論を出しにくい話の例なのだが、噛み砕いていると上より長くなりそうだ。はしょって説明しよう。

マルコ伝(マルコの福音書)というのがある。現存する一番古いイエスの伝記(的書物)とされている(早くても西暦65から70年頃の成立)。ただし、イエスについて語っているものとしてはパウロの手紙のほうが古い(早いものは西暦50年頃)。マルコがマルコ伝を書き始めたとしても、種本か種になる話はあるはずだとすれば、どこからがマルコでどこまでがマルコ以前(pre-Markan)かという問題だ。

昔の学者は統計理論などを援用したりして、用語やスタイルや思想内容を分析すればいいと考えた。しかし、例えばだが、同じ人間でも、いつもいつも同じ単語を使うとは限らないだろう。例えば、マルコは και ευθυς = kai euthys(「すると直ちに」という意味)を多用するというが、初めの数章に顕著なのであって、それが指標とはなりえない。だから、こういうものだけでは方法論的に破綻してしまう。実際、新たな事実などが出現しない限り、この企ては無理である。

3. ネットでの偽書

これもマルコ伝で昔の学者がやった方法(出てくる単語やスタイル、あるいは思想内容の統計的処理)では無理だろう。いや、もっと無理なのだ。小谷野先生の大嫌いな「匿名(ハンドル名を含む)」が真筆か偽書かの特定を阻む。ゾンビ化した匿名が跋扈する。現実世界に同姓同名がいるように匿名の同姓同名がいるし、現実世界に他人の空似がいるようにネットの空似も溢れている。

革命的非モテ同盟の書記長がコメントをくださったことがあるので、彼のブログを訪問したら、Mark Water という人がコメントしているのでびっくりしたことがある。もちろん、この方は意図した「なりすまし」ではなく、私とは関係なく、その方がたまたまハンドル名にしていたらしい。(私の場合の Mark Waterman は実際の米国籍名=実名である。)

今のほうが難しいといっても、昔から難しかった。意図的な偽書なら、統計的に類似性が収束してくればくるほど偽物となるし、逆に、もっと高度なテクニックを取る者ならば、今度は意図的に偽書に見せかけている本物であることを示そうとして、違った単語やスタイルを少しだけ忍ばせることになる。これを聖書学者は「一貫性クライテリアと非一貫性クライテリアのパラドックス」という。