Comments by Dr Marks

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金が欲しくなくなったら、やはり幸福かもしれない―小さな終末論

数日前に金が欲しくなくなったら不幸であると書いた。金が欲しいうちは一般的な意味で幸福だからだ。あるいはこの世的な意味で幸福だ。今日も明日もこの世で経済的な生活を営み続けるうちは、金はいくらあってもありすぎるということはない。しかし、明日をも知れぬ限界的な状況の中では、金など役に立たないから、金など要らない。そんな境遇は不幸だと言ったのだ。

しかし、本当は幸福かもしれない。人生の目的や、世界の終わりを意識するならば、(隠棲する仙人の無欲とは別の意味で)金など要らぬのである。いや、金など役に立たない。そのことを意識して生きる人は、たとえ明日も経済生活を余儀なくされるこの世に生きながらえているとしても、金など欲しくないのかもしれない。そのような人は、きっと幸福であると信ずる。

ナチス強制収容所を生き抜き、先年92歳の長寿を全うした精神科医ヴィクター・フランクル(Victor Emil Frankl)のEin Psychologe erlebt das Konzentrationslager 強制収容所を体験した一精神科医、邦訳:『夜と霧』)を思い出して、今晩のおかずに文句を付けた。メリーHのまたまたゲヴィッチだったので、「わしは肉など嫌いじゃ、納豆で白いおまんまが食いてえー、よしんば強制収容所で肉が出たとしても誰かに上げてしまう」と、もちろん冗談なのだが、言ってしまった。すると家人にいくら冗談でもアイディアがよくないと言われてしまった。

メリーHの旦那はナチに刺青を彫られて、フランクル同様幸いなことにアウシュヴィッツは一泊しただけでガス室を免れ、労働のために別の収容所に移動させられた。中での生活は、フランクルが書いている通りである。我々は、レスリー(旦那の名前)から収容所での話しを直接聞くことはない。メリーHが聞いたことを、メリーHから聞くだけである。

さて、思い出したことなのだが、生きるか死ぬかの限界状況(←一般的な用語として使っている、ヤスパースのGrenzsituationと思わなくてもいい)の中で、崇高な人間性を示したものは誰か。ドイツ人に苦しめられたユダヤ人か。読んだ人ならわかるだろう。どちらということはない。監視するドイツ人にも尊敬すべき人物はいたし、虐げられているはずのユダヤ人にも畜生のごとき人間はいた。

終末に何を見ていたかで、人間の生き様が変わるのであろう。さてと、トム・クルーズの新しい映画Valkyrie (英語読みヴァルキュリー)は12月25日(クリスマス)に上映開始だ。ヒトラー暗殺計画だぞ。週末に何を観たかで、人間の生き方が変わる(なわけないか)。