21世紀神学の覚書
数日前に、ハイデッガーの存在的(ontisch、個々の存在に関わる)と存在論的(ontologisch、個々の存在を超えた存在そのものに関わる)という区別について触れた。ハイデッガーのもっと有名な用語でこれら二者を示せば、前者 ontisch は existenzielとなり、後者 ontologisch は existenzial となる。これらの言葉を英語に直す場合は類縁にある言語の気安さで、それぞれ existentiel とexistential となるが、日本語では前者を実存的、後者を実存論的とでもするしかあるまい。
(今気づいたことがある。英語の本で、文脈から明らかに existentiel でなければならないのに、existential と誤植されているのがあるが、ワードは existentiel という本来英語にはない語を勝手に existential と書き換えるのだ。自動校正機能というものは知らないうちに誤植にしてしまうことも多い。諸君、ご用心めされよ。)
こんな面倒なものは言葉ではなく、表にしたほうがいいだろう。かっこの中はドイツ語を英語に訳したものだ。なお、ハイデッガーにこだわらなければ、existential を実存論的ではなく単に実存的という日本語とすることもあり、これは一般的・通俗的用法とみていいだろう(あくまで私見)。
存在的=ontisch (ontic) . . . . . . . . . . . . . 実存的=existenziel (existentiel)
存在論的=ontologisch (ontological) . . . 実存論的=existenzial (existential)
私は、確かに「哲学」の教育を受けているが、今は離れており好きではない。どうも思想全般が軽薄と思えるし、何とでも言えるいい加減さが好きではないのだ。しかし、今年を振り返ると、故竹田寿恵雄先生の著作を読み始めた頃から嫌いな哲学に再び触れだしたが、神学との関わりもあったからだ。
神学というものは更にいい加減なものであるが、哲学との係わり合いは深いし、実は、私の専門は神学そのものであるから、いくら嫌っても逃げ切れない状態でいる。しかも、私の神学は、従来の教会神学(教会教義学、組織神学)の枠を踏み出でたところにある神学基礎論(fundamental theology)であるから、哲学そのものの分科と言ってもいい。個人的な経緯を話せば長くなるからはしょるが、私は神学で形の上は学位を得ているが(神学の教室に属したということ)、実際は聖書学(新約学)と歴史学を加味して仕事をし、今では神学者ではなく聖書学者を自称している。
そんな私が、人生の終わりあるいは人生の目的(ラテン語の finis やギリシア語の telos には「終わり」と「目的」の両義があるように英語の end にも両義がある)に絡んで終末論(神学の課題の一つ、eschatology、エスカトーロジーと発音)を再び学んでいるからだ。終末論では、人生の終わりあるいは目的同様に、社会のあるいは世界の終わりと目的を扱うことになる。そんなものは物理学の課題だろうと思う方もあろう。確かにその通りだが、個々の人間の人生の終わりと目的も絡むと、物理学とはまた違った視野が現れる。
そのような枠組みの中での存在と実存あるいは現存在(Dasein)だが、20世紀の(正確に言うと19世紀)の問題意識であり、今では中心的な課題ではない。さて、そんなことを21世紀に意識しだしてどうなることやら。