Comments by Dr Marks

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週末はブログシャバートと言い続けているのにまた「終末 Final Event」だ―シュヴァイツァー博士の巻


シュヴァイツァー博士演奏のオルガン(バッハの『小フーガ』)

終末論が自分の生き方と関連するというと実存主義的生き方かと勘違いしてもらっては困る。(いや、結局はそうなのかもしれないが、まだお金が欲しいほど生臭ければそうではない。)終末の話は、実は、史的イエスに繋がる。

史的イエスといえばアルバートシュヴァイツァー(Albert Schweitzer、1875−1965)と来なければならない。神学者にして音楽家にして哲学者にして医者であるノーベル平和賞シュヴァイツァー博士だよ。こんな博士号を三つも持っているような人は「博士」と呼べるんで Dr. Marks なんかは「薄士(はくし)」にすぎない。(いや、墓の研究で博士だから「墓士(はかせ)」なんちゃって。)

それはともかく、この先生は、当時ドイツの自然主義自由主義人文主義人道主義的神学と真っ向から対立する議論を、副題がGeschichte der Leben Jesu Forschung すなわち『イエスの生涯研究の歴史』という本の中で行った。1906年のことだ。簡単に史的イエスの研究とか quest of the historical Jesus と言い習わしている。対立したとはこういうことだ。すなわち、いわゆるリベラル学者がイエスを単なる人道的教師と描いてきたのに対し、徹頭徹尾「終末=神の国」を説いた宗教的指導者であると結論づけた。ただし、それ以上の顔は見えてこないという悲観も示した。この悲観が、史的イエス研究のストッパーに意図せずしてなってしまった原因でもある。

今でこそ形を変えて「史的イエス」の研究は進んでいるが、少なくともドイツの神学・聖書学の世界では、皮肉なことに(シュヴァイツァーの意図とは別に)シュヴァイツァーのこの研究をもって史的イエスの研究は無意味となった観があった。少なくともプロテスタントの世界では、二つの両極端の道に別れ、世界に影響を及ぼすことになり、史的イエスの研究は下火となってしまった。二つの道とは、カール・バルトの道とルドルフ・ブルトマンの道である。いずれも史的イエス研究を必要としない。

ただし、誤解のないように念を押しておく。カール・バルトはもちろん、シュヴァイツァーもブルトマンも(著作を読めばわかるように)いずれも現代の自由主義神学者や聖書学者から見るならば極めて素朴に信仰深い学者であった。

ところで、これも誤解されるのだが、シュヴァイツァーは、自分では史的イエスの研究はしていない。むしろ、彼の議論の基は福音書(主として共観福音書)であった。ちょうどジェームズ・フレイザーが『金枝篇』を書斎で書いたように、といえば叱られるかな。