米欄へのお返事とパピルス文書の差し替えについて
いやー、「説教者」になると反応がいいなー。最近知ったが、こういうのをネタ記事と言うんだって? いやいやいや、そんなじゃありません。至って真面目。「通りすがり」さんとか、小谷野先生系「圭介」さんからお米いただいたので、ちょっとお礼(お笑い)を。
おっと、その前に、前の記事のあの小汚い板の切れっ端のようなものは何だ、という声もあるので説明します。何ね、写真を入れたかったから、ネットでパウロ関係の写本と入れて検索したら出てきただけのものですよ。
ところがね、今朝になってどこの部分か読もうと思って私の安物Compaqのブラウザを400%にしたら驚いた。裏焼きだ! 字が全部鏡文字じゃねーか。それで、いくら偽物聖書学者でもこの辺りど素人とは違うんだが、Chester Beatty (チェスターはいいが、その次はベアティーと読むのが本当だが、ビーティーと読まれてしまうので、ビーティーでも通じる)かなと当たりをつけて漁ったらビンゴ。ちゃんと表焼きで見つけたから正しいのと差し替えたよ。
P46と番号のついたとても古い(180−200年)パピルス文書で右のページがローマ人への手紙11章13節の途中「わたしは異邦人のための使徒であるので…」で始まり、左のページはコロサイ人への手紙の1章5節の途中「真理のことばを通して…」で始まっている。なお、どちらのページもパピルスの裏側。どうしてローマ人への手紙とコロサイ人への手紙が繋がっているかというと、皆さんの本をばらばらにして確かめてごらん。1ページの隣が16ページだったりするでしょう。
パピルスの話はまた後でね。私だって忙しいんだ、今昼食を横に置いて書いてるんで、そのうち冷めちゃうよ。で、以下本題。囲みは圭介さんからの米。
初めまして。
小谷野さん関連のでマークスさんの事を知って、楽しく色々なブログで見てたのですが、
このパウロの手紙から考えると、
オウム真理教とキリスト教ってのは同じようなものですか?
圭介さん、いらっしゃい。
オウムなんとかというのはよくは存じ上げませんが、「復活」に類する概念はどんな宗教にでもあるでしょうね。そして、そんな気違いじみたところが宗教が宗教であるゆえんです。この辺りは宗教を科学するだけの立場からは複雑すぎてわかんね、となるわけですが、常識というかコモンセンスに欠ける知識だけ人間などはオウムなんとかなどに引っかかりやすい。まっ、それは、ただのアンポンタンなんでしょう。
パウロは大変だよ。こいつほんとの気違いだから。こいつキレるから、キレたら怖い。あまり付き合いたくない奴だ。クリスチャンを片っ端から牢獄に入れちゃおうってんだから。そんで、今度はクリスチャン側に寝返ったら寝返ったで大変だ。
アテネの人たちなどは、この気違いパウロをあざ笑った挙句、「ポールちゃん、復活の話はまた後でね」とか言うし(使徒行伝17:32)、カイサリアではフェストゥス閣下から「ポールちゃん、復活の話をするなんて、お前、頭狂ってるよ」と言われていたんですよ(使徒行伝26:24)。圭介さんが言うよりうーーーんと前から。
ほんで、パウロも同じ気違いかもしれないけど、麻原のような下賎で邪悪な低脳と同じかというと、どうかな? 圭介さん、人から聞かないで自分で調べてよ。もう僕は昼飯にするから。