Comments by Dr Marks

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神学を学ぶでも、神学するでも、何でもよい―生きる糧、キリストにあって生きるよすがの学びのために

言い方など、幾ら変えてみても仕方がない。私から言わせれば、神学などつまらないものだ。何の役にも立たない。何の役にも立たないものに、実践神学、歴史神学、倫理神学、芸術神学などと名称をつけるのには大笑い。神学と付けば偉いわけではない。むしろ、羊飼いどもが羊をだますために何でもかんでも「神学」と言っているにすぎない。

日本人の一般的な理解を知る意味で日本語ウィキべディアの「神学」という項目を見てみた。キリスト教神学以外の神学にも少し触れていることはなかなかよろしい。しかし、キリスト教神学の内容になると一昔前、否、二昔前のの神学校のカリキュラムから書き写してきたようなものになっていた。つまり、「何でもかんでも神学」だ。つまり、神学的見地からの学びだから「何でもかんでも神学」になるのであろう。

それなら一般の大学で教える教育学でも文学でも、あるいは地球物理でも、信仰の立場から講ずれば教育神学、文学神学、地球物理神学と言ってもいいことになる。このようなトンチンカンから、頓珍漢先生が、「神学を学ぶ」と「神学する」は違うなどと言い出すことになる。

例えば、教育神学はChristian Education、倫理神学はChristian Ethicsというのが英語では一般的だから、キリスト教の立場からの教育学また倫理学であることが明らかだ。しかし、教育学あるいは倫理学の一分科であるはずなのに、反対に神学の一分科として高邁な雰囲気を醸し出さなければならないので「神学を学ぶ」だの「神学する」だの、大衆を煙に巻くこととなる。(ひょっとして、教えている先生自身がそう信じているのだろうね。)

日本語の神学」はウィキペディアにもあるように欧米の言葉、例えば英語では theology の訳語として入ってきた。この言葉の元を辿るとギリシア語で男性形ならセオロゴスθεολόγοςという言葉である。直訳すれば「神の言葉」であるが、実際は「神あるい聖なるものに関わる学問」という意味で初めから使われている。

さあ、そこでだ。「神あるいは聖なるものに関わる学問」って何だ、ということになる。答の一つ。神しろしめす森羅万象を含めた学問。そうだよ。それも答だ。そこから、あらゆる学問に「神学」を付けたくなる動機が生まれる。天ぷら丼を学問すれば天ぷら丼学だが、これさえ神の下と考えれば「天ぷら丼神学」だ。

違う。普通の答では、「神あるいは聖なるものに関わる学問」とは、「神あるいは聖なるものに直接関わる学び」のことである。例えば、世界最大の神学大学院であるフラー神学校には三つの大学院(three schools)があるが、神学関連は School of Theology だけである。更に、School of Theology の博士課程(Ph.D. program)の学生はすべて Center for Advanced Theological Studies(CATS)という研究所に属するが、すべてが神学専攻ではない。いや、正確に言うと、11ある専攻のどれを修了してもPh.D. in theology と学位記に書かれるが、普通、その中でも神学専攻というのは、「理論神学」あるいは「根本神学」という分野を専攻する者に限られる名称である。

では、理論神学あるいは根本神学とは何かというと、面白いことを言おう。この人たちこそ「神学する」のだ。「神学を学ぶ」人たちではない。どういうことかというと、実際は、この分野の教授は伝統的に聖職者養成の職業教育を担当する場合は、「組織神学」、「教会神学」、あるいは「神学哲学」などの教科を教える。つまり「学び」のための、上から下への職業教育だ。教義学を学ばせるのだが、もはや「神学を学ぶ」ことはしなくなる。

つまり、理論神学や根本神学においては、組織神学や教会神学という学びの神学をも批判の対象として「神学する」のだ。誤解のないように説明すると、この場合の「批判」というのは攻撃することではなく、理性的論理的に検討するということにすぎない。だから、結果として攻撃することもあるが、冷静に「神学する」ということである。既存の神学を学ぶことは終えたものが、更に「神学する」のである。神学哲学も近い仕事をするが、理論神学あるいは根本神学のほうが研究対象(神・聖なるもの)に対してラディカルかもしれない。

繰り返すが、こうなると「神学を学ぶ」とか「神学する」などという他愛もない言葉遊びなどしていられない。自分が生きることすべてに目を向けなければ何の役にも立たないのだ。もちろん、そのために日々学ぶことはたくさんある。新しい言葉をものにしたり、先人の考えを検討したり、人の心の読み方なども学ばなければ、根本的な神の理解と把握には至らないだろう。(がっかりさせてしまうと、根本的な把握などありえない。もし、把握したと思ったら、そのときは生きていないと思ったほうがいい。)

CATSは私の母校でもあるが、既に司祭に叙階されている神父様がたも学んでいる。私とほぼ同期のH師は、南米で宣教生活をし、スペイン語のほか、特殊な現地語にも巧み(何語か忘れた)である。残念ながらというか、祝福すべきというか、博士を取ってから縁あって結婚され、司祭職を解かれた。しかし、今もカトリックの信仰でL.A.市内の某カトリック系大学で教鞭を執られているので、たまに会う。世俗に戻られても叙階の秘蹟は消えていないのがよくわかる。彼、どこから見てもやはり神父様。

私? その狭い意味での「神学」が主専攻、「新約学」が副専攻で修了。論文執筆前の博士候補試験では「現代キリスト論」を3教科「歴史学」1教科を選んだ。偽聖書学者とか偽新約学者と自称するゆえんは、副専攻にすぎないから。主専攻と副専攻の違い? 小学生と大学生くらいの違いがある。プロはプロだよ。