Comments by Dr Marks

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学ぶ場のない人のための溜まり場―単なる溜まり場はそのままで学び場にはならないよ 

2月3日の記事に長大なコメントが付いている。そのコメントを読ませていただき、また私からレスポンスしている過程で、さまざまなことが浮かんできた。これは私にとっても極めて貴重な体験だった。長大すぎて、ただ単にコメントを続けて読むだけでも難儀ではあるが、皆様にもあるいは役に立つ情報もあるのではないかと思うので、ご一読いただければありがたい。また、コメントをお寄せくださった「通りすがり」さん以下の方々に厚く御礼申し上げたい。

私が感じたことは多岐にわたる。一度に感想を申し上げることも難しいだけでなく、もう少し考えてから表明したほうがいいものもあるので、今後、思いついたつど、あるいは準備がついたつど、記事にしていきたいと思う。

日本のプロテスタントに、世界でもめずらしい集団がある。内村鑑三を祖とする「無教会派」だ。「教会のない人たち」の集会だったが、実際は、内村は札幌独立教会の会員であり続けたし、無教会主義者といえども指導者を立てて定期的に集うのであるから、一種の教会であるともいえる。そう考えると、キリストや聖書について「学びたくても学ぶ学校がないと考えている人」もいるかもしれないと思った。

もちろん、ほとんどの教会には、そのような学びの機会が備えられているだろうし、日本にも神学校や神学部はある。しかし、教会のない人までいるわけだから教会で学ぶ機会がなかったり、神学校や神学部にいく時間的経済的ゆとりのない人は多かろう。あるいは、一般の教会のクラスでは物足りなかったり、また日本には適当な神学校や神学部はないとお考えの方もあるかもしれない。

もしそうだとしても、私としては、各位に、まずお近くの教会の門を叩くことと、可能な限り神学校や神学部で本格的に学ぶことをお薦めする。しかし、いずれも何らかの事情で希望がかなわぬ人がいるならば、このゴミのようなブログでも千に三つくらいは、キリストや聖書への関心止みがたき人のためになるようなことを書かなければならないと、今回の長大コメントを通じて自覚した次第だ。(大袈裟かな。)

なーんだ、正体現れたり、結局お前はヤソ坊主、とおっしゃるかもしれないが、それは元々隠し立てもしていないことで、私は生活と信仰が一緒のつもりだから、教会で馬鹿をしているときも、学校で冗談の連発をしているときも基本は少しも変わっていないつもりである。ただ、ブログはたかがブログながら侮りがたしと再認識したわけである。ただ、そうは言っても、今までどおりの馬鹿記事は書くし、丁寧にお一人お一人に必ず冗談満載のレスをするのだから表面は変わらないだろう。