Comments by Dr Marks

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誤りがないこと(無謬)が正しいことではない(たまには本業に戻って一言)

ウィリアムスン猊下(げいか)が真実、真実(truth)、と連呼するので真実で思い出した。先日、日本ではアーマンとも言われるイーアマン(Bart D. Ehrman)が書いた Misquoting Jesus(和訳『捏造された聖書』←トンデモ迷訳というか、やはり名訳かな)に対抗してティモスィー・ジョーンズ(Timothy Paul Jones)という人が Misquoting Truth(あえて訳せば、『真実を歪めて伝えること』)という本を書いた(IVP Books, 2007)。面白いので私も買った。

この著者は、キリスト教関連の学者かもしれないが、聖書学者でも神学者でもない。しかし、神学校で基礎教育を受け(M.Div.)、聖書もよく勉強している若いキリスト教系教育学者だ。彼は、実は、大いにイーアマンに同情的だ。なぜかというと、彼自身がイーアマンのような悩みを体験しているからだ。その悩みとは、聖書無謬説(聖書は神の霊感によって書かれた誤りのない本であるとするトンデモ説)の嘘を知った衝撃である。(この聖書学者でない著者が聖書学者であるイーアマンに対抗するからか、実におびただしい数の聖書学者の推薦をもらっているよ、たまげた。)

この著者のことはよくわからないが、イーアマンは自分の著作でたびたび自身について書いているので、ある程度足跡を辿ることができる。イーアマンは、公式に年齢を明らかにしないが、50歳以上60歳未満だ。シカゴにあるムーディー・インスティチュートという保守的なキリスト教系大学に入学し、聖書の無謬(むびゅう)を信じ、熱く信仰に燃えていた。しかし、その後、ウィートン大学、プリンストン大学と聖書の学びを継続するうちに、聖書無謬説の誤りに気づく。

例えば、ジョーンズも引用しているが、イーアマンはマルコ伝2:26の「大祭司アビアタル」という記述が旧約聖書の記述と(そして、恐らく歴史的事実とも)異なることに気づく。そのことを学生時代にレポートに書いたら、教授は「多分、マルコも勘違いしたんだろうね」とコメントしてくれたそうだ。(私も同じように書くだろう。)

そう、勘違いなのだよ。マタイとルカは同じエピソードを紹介しながらも、このマルコの記述はあまりにもおかしいので削除している。知らぬはイーアマンばかりなり。神代の昔から気づいていたことよ。勘違いなら、勘違いでいいのだ。勘違いや、ミスまで覆い隠して真実に見せようなどと聖書はしてこなかったし、古代の筆耕(ひっこう:手書きで聖書を再生産する scribe、写字工ともいう)は「マルコのばーか、直しておいてやろう」などとも言わなかった。誤りがないことが正しいことではないのだよ。

聖書の学びを深めて聖書無謬説の嘘に気づいたというイーアマンの素朴さには恐れ入る。そのような素朴な人が学問を深めたら衝撃であったろう。そもそも、聖書にオリジナルがあるという考えなど、初めから聖書学者は持ち合わせていない。それが嘘であるとか、「イエスを正しく伝えていない(misquoting Jesus)」などと言うほうがおかしい。イーアマンも相当に素朴な大学から始めたが(Moody Institute 関係者ごめん)、そういえばクレアモントのマクドナルドおじさんもボブジョーンズ大だぜ、初めは(Bob Jones University 関係者ごめん)。あっ、マックおじさんは最後はハーヴァードね、一応。

現在、イーアマンは立派な聖書学者だ。ティモスィー・ジョーンズもそのことは認めている。私も認める。その意味ではMisquoting Jesus は読み応えのある本だし、中味も Misquoting Truth より濃い。(後者は、前者の毒消しとしては面白い。前者が聖書の不備を強調しすぎている点を、素直な面から見直すにはよい本である。英語も平易で薄い本であるから、手慰みにどうか。) しかし、彼が神義論など調子に乗って神学に手を出すと噴飯ものの記述が目立つ。どうも、ムーディーやボブジョーンズ程度の学生は常識がないんだよなあ←あわわわ、猫猫先生的言い方だー。