Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

学問と人生―猫猫先生ブログと宮崎先生ブログに触発されて

ふと数日振りに小谷野敦先生のブログを見たら、宮崎純医師のブログの紹介があった。羽入辰郎という人の本の書評だが出てくる人名は小谷野先生を含め東大内部の人間が絡んだ全共闘から学問論へということだが、登場人物の誰をもわたしゃ知らんわ(笑)。もっとも、養老孟司先生とは数年付き合ったことがあるが、彼の若いときの話など知りはしなかった。

学問などやりたいからするんだよ。好きでブログを書くのと同じ。ただ、好きだからできるというわけではなく、向き不向きはある。で、学問が生きがいという人がいるが、結局はゴルフが生きがいと変わらない。というと、怒る人がいるだろうな。勝手におし。本当はそうなのだよ。

もっとも、人生を考えていたらそれに関連して学問をというケースはある。しかし、それにしても、何も偉そうに言うことはない。好きだからできるのだし、コミットし続けることができるのだ。役に立たない議論は、人生や生きがいが正面に出すぎた「学問屋」さんだ。そういう人に限って、意気込みだけでいいと思ったりするものだ。

学問の大本は「事実」の確認と「知識」の量と言っていいかもしれないことには同意する。その点、私は小谷野先生と同じかもしれない。また、学問に意味を求めるのも筋違いだ。ましてや「意味、意義」と意気込みだけの学者は困ったものだ。今アメリカで流れている通信業者のコマーシャルで、他の業者が具体的なメリットを上げているのに「お前はどうなんだ」と聞かれた間抜けなサービスエンジニアが「意欲だけ(good intentions)」を強調して馬鹿にされるという内容のものが(一部で)受けている。

アーマンとも言われるイーアマンが著書でしばしば自分の学問と人生の軌跡を語るが、彼は単なる馬鹿ではないから共感を覚えるところも少なくない。しかし、聖書学ならいざしらず、神学にまで学問と人生の議論が及ぶと「こいつ馬鹿か」と思ってしまう。彼は、聖書学においては学問をしたが、それが彼の人生や神学にまで及んでいると勘違いしていることがバカだからだ。