Comments by Dr Marks

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学者の世界では、落第など怖くないどころか日常茶飯事

何を隠しましょうぞ、中退・落第の何が悪い。物理を落第して数学に行ったり、数学を落第して哲学に行ったりなど、学者の世界では珍しくない。むしろ、やりたいことをやり続けるために、中退したり落第することも辞さなかったと言ったほうがよいのかもしれない。

10月25日の記事にはコメントがずらりと入っている。その中に、小谷野先生のウィキペディアの記事に関してWPさんという方がコメントをくださった。それに対し、小谷野先生に代わっての一種の横レス的になってしまったが、私なりの解釈をして答えておいた。内容は、小谷野先生がカナダのブリティッシュコロンビア大学(UBC)大学院を中退したことと英語に関わることだった。

外国語の力などというのは、奥が深いもので、どこまで行ったら満足ということはない。だから、逆から言えば、完璧ではないゆえに(母語でも同じ)ケチを付けようとするといくらでも付けられる。しかし、英語で授業する大学の大学院に入学した人に「英語まるでダメ」という言い草はないだろう。UBCでもTest of English as a Foreign Languageという入学基準があるし、どこの大学院でもRequirement of English Proficiencyというのがあって、TOEFL何点以上とかの基準に達していなければ門前払いなのだ。(大学によって基準の違いはある。)

そもそも、学者の世界では落第が怖くては生きていけない。人文科学や社会科学の分野では、思想や価値の問題が入り込むため、どうしても師匠と衝突せざるをえない状況が起こりうるからだ。だから、落第したら、なにくそで再度挑戦するしか好きな道を歩むすべはないのである。私が好きな神学者(聖書学者でなく本当の神学者)に、第二ヴァチカンのカトリック刷新時に活躍した Karl Rahner がいるが、彼などはフライブルク大学の哲学を落第しているので有名だ。しかし、めげずにインスブルックで神学の学位を取るが、フライブルクで落第したトマス哲学研究も後に結局出版されることになったし、何よりも彼は大学者になってしまったんだ。んっ、哲学落第で神学で学位だって、ラーナー先生は俺に似てるな。(な、わけないか。)