Comments by Dr Marks

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この際簡単に、同性愛と聖書の記述について、Twitter さえずりの続きのつぶやき

今朝、同性愛についてのTwitterを見た。まあ、よくやるよ皆様、そんなことを延々と、と思ってしまう。これを言うと、だから何だ(So what?)、と言われるのだが、余は「神学大学院神学研究科神学専攻神学専修神学特修神学特専」の出であるぞよ。

つまり、「博士(神学)Doctor of Philosophy (in Theology)」であり、かつ「神学理論・神学基礎論」が専攻ということだ。神学という学問分科には、聖書学、神学、神学哲学、神学史、教会史、教会論、宣教学、神学教育、教会音楽、以下等々と滔滔とあるのだが、これらはすべて神学といわれても、狭義の神学者は余のような者をいう。なお、余はもぐりで聖書学者とも自称している。1861年以来の全米の博士論文データベースDissertation Abstracts の分類では、神学にも聖書学にも入っているから、自称できる理由も少しだけあることも確かだが。

「だから何だ」に答えよう。少なくとも神学史は学問と言えるが、神学など馬鹿のやる遊びにすぎない。神学的おしゃべりなど暇人のすることだ。神学の諸々のテーマは、何とでも言えるから、従って何とも言えない。すなわち、客観的な議論は成立しないのだ。ただし、神学史とは別に、現実の問題についても細かな事実関係の議論はできるので、専門家の間では議論が不可能とは言い切れない。ところが、社会的な、あるいは政治的な思惑が入り込めば泥沼である。不毛である。罵りあいをやりたければすればいい。

そんなことはわきまえていても、教会関係者や教団の指導部は、社会的・政治的な問題が入り込んでも逃げているわけにはいかないので、神学的な議論を(嫌々ながらでも)せざるをえない。そのようなことを仕事にしている方々には頭が下がる。いや、皮肉ではない。現在のロマ教皇ベネ16様は、俗名ヨーゼフ・ラッツィンガー博士としてそのような仕事をずっとなさった方だ。だから、尊敬しろよ。そのような学者たちの合議に基づいてロマ教会の公式見解となるわけである。これは他派においても然り。

余は人生はいい加減に送ると決めたから、そんなことからは足を洗った。てか、大学院の最終段階で神学よりは聖書学を専門にすることにしてしまったのだ。聖書学だってこれから言うようにいい加減ではあるが、神学よりは「おしゃべり」ではなく、学問となっている。ああ、ああ、ああ、また前置きが長くなった。このように序論が長いのは、元々神学者であるからだな。聖書学者はもっと簡潔である。

さて、本論。聖書の中に「同性愛はいかんぜよ」と書いてあることは間違いない。ただし、現在のような調子で同性愛、ホモ、レス、男色、お釜、ゲイなどとは書いていない。歴史的・社会的な背景も違うのであるから、文字通りに取っていいかどうか問題の箇所も多い。因みに、ゲイだが、英語としては半世紀前までなら、「明るく、楽しく、陽気」という正しい英語の形容詞であったが、今では同性愛にしかほとんど使われていないのは嘆かわしい。しかも、これが曲者なのだが、聖書では、事の性質上、直接的な言い回しを回避していることが多いのでなおさらわからない。しかし、同性愛と直接的に言っていなくても前後のコンテクストなどから、疑いなく同性愛のことであると断定できることが多い。

今日は、旧約聖書新約聖書からそれぞれ一つだけ、誰が読んでも同性愛禁止と思われる箇所を紹介する。もちろん、それぞれの原語(旧約はヘブル語、新約はギリシア語)の問題もあるが、この旧約と新約のそれぞれの箇所は、現代語への翻訳でも比較的異論は少ないところであるから、そんな無駄な解説はしない。いずれも新共同訳の日本語訳で紹介する。なお、同性愛禁止に関係する可能性のある聖書の箇所は、もっともっと多いことを断っておこう。自分で探せ。

〔旧約〕レビ記18章22節

女と寝るように男と寝てはならない。それはいとうべきことである。」

なお、聖書は男の例で男女共通の例を示すから、女は男と寝るように女と寝てはならない。ホモはいけないがレズはいいということではない。

〔新約〕ローマの信徒への手紙1章26 b節−27節

「女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。」

ロマ書のこれは異教徒のコンテクストでのことでしょうなどと、わかったふりをする者がいるかもしれないが、違う。異教徒が駄目ならキリスト教徒はもちろん人間皆してはいけないということだ。

念のため:早とちり屋のために言っておく。余は、聖書にそう書かれていると言っているだけだ。そのようにしろ、とは言っていない。例えば、ソドムの町を焼き滅ぼせと言われても、心優しい(ホントだぞ)余は、アブラハムと一緒になってソドムのために神様と交渉するつもりだ。同性愛には医学的に深刻な問題などもあるので一筋縄ではいかない。その辺りはこれからの課題だろう。ただし、同性愛のカップルも異性愛における夫婦と何もかも同じだと主張する行き過ぎた同性愛論者とは、余は話をしない。馬鹿と話しても無駄だからだ。