Comments by Dr Marks

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No. 1.

チェスター・ベアティ聖書パピルス写本および本書との私的出会いについて

以下の内容は、主として、1933年にロンドンで出版された The Chester Beatty Biblical Papyri:Descriptions and Texts of Twelve Manuscripts on Papyrus of the Greek Bible (チェスター・ベアティ聖書パピルス写本:ギリシア語聖書12のパピルス写本についての解説ならびにその本文)という本の第一分冊からのものである。著者は、大英博物館館長兼司書監であったフレデリック・ケニョン(Frederic George Kenyon、1863−1952)卿である。当時、世界的な古典学者で古代筆跡学者であった。

この本に初めて出会ったのは東京だった。日本の大学が持っている7冊のうちの1冊に巡り会ったのは?年も昔のことだ。当時は大学に籍を置くと同時に国際出版に従事していたが、朝の5時に起きて誰よりも早く仕事を始めると夕方には誰よりも早く仕事を終えて早々に図書館に向かった。勤務時間がない役員の特権を利用して日中の講義にも出掛けた。

このような本に興味を持ったのは、神学や聖書学を学んでいたからではない。この頃は、神学や聖書学の学歴は一切なかったのである。どういうわけか(他人事のようだが仕方がない)洗礼を受けているから、その意味では、クリスチャンはクリスチャンだった。ただ、キリスト教にはほとんど絶望しており、キリスト教は「親の敵」くらいに思っていた。いや、もっと正確にいうと、宗教は「人類の敵」だった。

それゆえ、キリスト教のみならず宗教全体を敵に回すような気持ちであったから、比較宗教学のようなものへの関心のほうが高かったかもしれない。しかし、不思議なもので、湯島の聖堂でぼんやりしたり、神田明神湯島天神根津神社と辿ることはあっても、ニコライ堂本富士警察署前の本郷中央会堂(漱石の『三四郎』に出てくる教会)、下谷教会、近頃閉館することになった学士会本郷分館で開かれていた無教会系の聖書研究会などに出かけるほうが気が休まった。

この頃、特に印象に残っているのは、下谷教会の太った主任牧師が、私が礼拝を終えて帰りかけて階段の途中にいたとき、息をはあはあいわせて駆けてきて「あなたは初めていらっしゃいましたね」と聞いてきたことだ。説教中に多くの会衆の中から新顔の私に気づいたらしい。しかし、私は名前も住所も来会者名簿に記入しないどころか聞かれても答えない人間だったし、それ以来は行っていない。今思えば申し訳がなく恥ずかしくなるが、あれが牧会者の姿なのだと、よい勉強をさせてもらったと思っている。

さて、いきなり、何を思い出話と思うかもしれないが、この頃作ったメモ(実際は「総合序文」部分の日本語訳)が、二つ折りフォルダーの山の中から出てきたからだ。大事な本さえ捨ててきたのにベタでタイプしたたった16ページという薄さからか、紛れ込んで我が家にあったのである。ちょうどアーマンとも言われるイーアマンの野郎について考えていたときなので、再び読んでみて、あれっ、これってもう著作権が切れているし、聖書学の素人にしてはよく訳しているわい、出版してみるかなどと思った次第だ(出版なんて冗談だよ)。

「チェスター・ベアティ」とそのときから私はカタカナ表記していた。ふむ、なかなかの勉強家だったな。普通の人はチェスター・ビーティーと表記するのであろうが、この人の実際の名前としては、「ベアティ」または「ベイティ」が正しい。しかし、レーガン大統領がリーガン大統領と発音されてしまうように、アメリカ人も「ビーティー」と一般には発音するから、チェスター・ビーティーでも通用する。

チェスター・ベアティ(Alfred Chester Beatty、1875−1968)は、アメリカのニューヨーク生まれで、コロンビア大学で鉱山学を修めたあと、コロラドの銅山で文字通り一山当てた人物だ。裏山師。彼は文化的事業に巨万の金を注ぎ、現在この記事のテーマである「チェスター・ベアティ聖書写本」といわれる古写本の収集にも協力した。1933年イギリス国籍を取得しナイトの称号を得ている。また、1957年にはアイルランドの名誉市民(国民)となっている。そのアイルランドのダブリンに彼の名を冠した図書館(兼博物館)がある。

今日はここまで。見直す余裕がなく、誤植があるかもしれません。