Comments by Dr Marks

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終わりよければすべてよしか?

エレミアという紀元前7世紀から6世紀の預言者がいる。当時のイスラエルユダヤの社会は堕落していた。いや、堕落はいつものことかもしれない。北のバビロニア、南のエジプトからも脅威に曝されているのに王たちさえも楽観しているどころか、神に仕えるはずの預言者も自分勝手な楽観的なことばかり語っているというのが、当時の状況だった。まあ、わが大統領も楽観的な預言者のようですな。

エレミアは神経質で臆病だったそうだ。そのくせ悪行に対しては大胆に歯に衣着せぬ物言いでとても手厳しかったため、多くの敵を作ってしまった。聖書に書いてあるわけではないが、彼の最後は痛ましいものだったらしい。実際はどうなのかわからないのだが、ユダヤ教徒の古い伝承では、彼はエジプトで石打にあって殺されている。

成功した人生であったとは、一見する限り言えない。しかし、神の人としては祝福され充実した人生であったはずだ。最後の姿が、人間的な目からはどのように見えようが、神の目から見たらどうかということでもある。ペテロであろうがパウロであろうが、いや、その前にステファノであろうが、バプテスマのヨハネであろうが、死に方そのものは惨めだった。

翻って考えてみると、決してよい人だからといって、あるいは信仰の人だからといって、よき最後があるとは限らない。神は決してそのような勧善懲悪的な型にはまった(cast iron)ような最後を用意していてくださるわけではない。自分は神様に信頼して生きているのに、どうしてこんな困難な毎日なのだろうと考えている方がおられるだろうが、信仰の先人がそのようであることを考えたら、決して「自分は、自分は」と責めなくてもいい気がする。

反対に、「あれっ、自分は恵まれすぎているから、聖書に残るような人物ではありえない」と考えることも早計だろう。アブラハムはじめ多くの族長たちやヨブなどの最後などは、途中の人生の困難を補って余りあるようなよい最後を迎えている。(もっとも、ヨブ記の最終部分は後代の追加という説に立つならば、ヨブも惨めな最後になってしまうのではあるが。)