Comments by Dr Marks

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キリスト教正統派が異端排斥といって、むしろ異端の中にこそあった「原初の信仰」を排除したという神話について

ブログは横スレが面白い。自分はしばしば横スレをするが、されるのも楽しいと思っている。ところで、最近、数箇所で横スレを試みたが、2箇所で関連していたのは現在の正統派(一応カルケドン会議批准会派の末裔と定義しておこう)が、むしろ原初の信仰(一応第二世代つまり2世紀初頭までのキリスト教としておこう)を排斥しており、例えば、5世紀に排斥されたネストリウス派の信仰の中にこそ原初キリスト教があるというアイディアだ。

それは神話である。最近のイーアマン(日本語訳ではアーマン)は多少趣が違ってきたが、一頃は正典は非正典を排斥してきた過程の産物だと言っていたのと同じ神話だ。聖書学的には1930年代まで、神学的には1960年代まで有力だった考えだが、そのカビの生えた考えはまったくの神話と言っていい。

私の学歴上の専門は現代キリスト論(contemporary Christology)なのであって、古代のキリスト論は門外漢ではあるが、それでも素人さんの聞きかじり読みかじりとは違って全体の視野から見ているつもりであるし、心して人生をかけて学んできた。とくに、自分で講義してみればわかるのだが、原初の信仰などというのは「原初」からあったのではない。

むしろ、長い間、自分たちの信仰の中味は自覚できなかった(他人に説明できるようには整理できていなかった)とみるべきである。ちょうど青年期の人間が自己を定義しあぐねているがごときものなのだ。青年期の人間が成長を続ける中で自己を徐々に自覚するように、初期のキリスト教は、度々の公会議その他の自己練磨の中で、自分の信仰が何であるのか、次第に明らかになってきたに過ぎない。

その過程を歪めの過程と取れば「神話」になるが、実際は伝承を通して、それまでは自覚的でなかった「原初の信仰」に、理性的体系的に近づいただけなのである。正典を読んでから非正典を読めば異様さに気付くように、「排斥された」という異端の教理を検討してみれば、同様に異様さに気付くはずである。