Comments by Dr Marks

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冠詞の不思議、新約聖書から(ネタ切れで、ギリシア語初歩でごまかすブログ)

ブクマの kenkido さんへ:「はてな」ブログではユニコードで入力したギリシア語を次のようなタグで囲みます。
<span style=”font−family:ギリシア語アクセント可能な書体”>ユニコードギリシア文字</span>(ただし、タグはわざと全角で書きましたが、機能させるためには半角で書く必要があります。)
ギリシア語アクセントが可能な書体として私は Palatino Linotype を使っています。ユニコードギリシア文字入力はいろいろな方式がありますので省略します。その際、キーボードの配列にも注意する必要があります。参考にしていただければ幸いです。私も「はてな」ブログでの適用は読者(複数)に教えていただきました。

この話はつまらない人にはつまらない(関係ねー)。当たり前の人にもつまらない(こんなの初めに習うよ)。しかし、面白がってくださる人のために。

例えば英語では神は常にGodであり、the God のように冠詞を付けることはない。しかし、ギリシア語では付けるのが普通だ。だから有名な「神は愛なり」(ヨハネ第一の手紙 4:16)は、英語では God is love でもギリシア語では神(θεος)に冠詞が付いている。(ギリシア語文にすると、Ὁ θεὸς ἀγάπη ἐστίνとなる。また余談ながら、大文字を使ってΘεοςとする必要もない。)

さて、God is love だが、神と愛を逆にして、Love is God とすると、意味は似ているようだが違う。前者は神が主語であり愛が述語である。主語と述語は、逆にして必ずしも等値となるものではない。「マルクスは人間である」が「人間はマルクスである」にならないことと同じである。英語は語順によって、基本的には主語と述語が決定される。

しかし、ギリシア語は主語と述語は語順ではなく語尾変化で決定されるから、語順は変えても構わない。すなわち「神は(神が)」はθεοςという語形が決定しているのであり、文の中での位置が決定しているのではない。従って、例えば「神の」はθεουという語形に変化する(語尾の字に注意)。

理論上、「神は愛なり」をὉ θεὸς ἡ ἀγάπη ἐστίνはここでは冠詞)のように神にも愛にも冠詞を付けて文は作れるが、主語がどちらかわからず、意味は曖昧になる。つまり、God is love なのか Love is God なのか判然としない。なお、ἐστίνが英語の is (なり=である)に相当するが、ギリシア語での語順は自由であるから、Ὁ θεὸς ἐστίν ἡ ἀγάπη と書いても事情は変らない。

そこで、こういった曖昧さを避けるために、ギリシア語では述語の冠詞をはずして文を作るのが普通である。ヨハネ伝の冒頭の「(また)言葉は神であった」は、(καὶ) θεὸς ἦν ὁ λόγοςのようにλόγος(ロゴス=言葉)に冠詞が付いているのだから、従って言葉が主語であることがわかる。「何だ、神のほうが主語でないとは不敬な」などと言っても仕方がない。文法的にはそうなのだから。(ἦνは英語の was に相当する単語。)

あーあ、基本的にはユニコードに対応していない「はてな」で正しいギリシア文字を書くのは骨が折れる。これだけ書くのに普通の10倍かかったぞえ。もうギリシア語でごまかすのは止めよっと。