Comments by Dr Marks

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No. 2.

「共観福音書問題」(第2講)資料とは、「文書化している伝承」をもっぱら指し示すなり

二資料仮説(Two-Source Hypothesis)とかQ資料仮説(Q Source Hypothesis)などの核心部分に入る前に、いくつかあらかじめ明らかにしておいたほうがよいものがある。日本語で私が「資料」としたものは、普通、英語ではsource という言葉が使われている。そして、これは普通、文書化されている資料(written source)に限って使われる。従って、Two-Source Hypothesis を Two-Document Hypothesis と、誤解を受けないように言う人もある。しかし、一般的ではないから、Two-Source Hypothesis と記すほうがいいだろう。

このことをしっかり頭に入れておかないと、今後の錯綜した論理の中でますます混乱に陥ることになる。おそらく多くの人は、マタイやルカがマルコにはない記事を挿入していることを知ったあとで、更に、今はない資料を両者が参考にした可能性があると聞くと、素直にうなずく。Q? それっていいんじゃないの、ってね。なぜなら、何もないところからマタイやルカが新しい記事をマルコに付け加えて書くことができないからである。

なるほど、確かにその通りなのだ。しかし、「伝承(tradition)」とは、かならずしも文書化されたものとは限らない。口承(oral tradition)もあるわけである。その中には、イエスの言葉を伝えたもの、使徒たちの言葉を記憶したものもあろう。更に言えば、福音書としてまとまった形になる前の(つまり、口承と歴とした資料の中間に)断片的なメモ程度の書き物も存在したかもしれない。それは非常に合理的な考えで誰でも納得するものである。

しかし、共観福音書問題で対象とするのは、このような(多くの人が関わっているであろう)原初的な伝承ではない。現在の(細部の写本的差異は捨象して)共観福音書に影響を与えたであろう直接の「まとまった文書」だけを資料とみなすのである。もちろん、例えばだが、現在のマルコ伝が、ちょうど一本彫の木像のように、初めから変わらぬ書下ろしそのままの資料とみるならば、それはそれでいい。

序でながら、このような資料そのものを探究する学問を「資料批判(source criticism)」という。聖書学としては、旧約聖書の資料批判において、J、E、D、Pの各資料を抽出したことは読者の多くがすでにご存知であろう。同じような作業を新約聖書で行い、共観福音書に適用しているのが、この我々の話題であるといえる。

序でながらの序でに言えば、かつて猫猫先生こと小谷野敦先生に唆されて長谷川三千子の『バベルの謎』について一言述べたことがあるが、彼女がその本の中で創世記の「作者たち」に関して述べているものは、64ページから68ページ辺りまでは教科書的な内容であり、間違いもない。しかし、69ページ以降になると作者が一人であるとか複数であるとか、いかにも興味をそそる彼女の作り話が始まる。

しかし、旧約学者の行う資料批判は、そこには入り込まない。入り込むための方法論が確立していないからである。あくまでも文字となった資料の内部的関係を探索するのであって、勝手な憶測の物語りはしないのである。どういうわけか、女流学者は物語るのが好きである。そして、日本の出版界はそのような物語を衆愚に提供して儲けておる。最近知ったことだが、Eliette Abecassis の『クムラン』が和訳されたそうだ。彼女は高等師範出(フランスの高等師範は、文系の最も秀才が行くところ、行けない者は大学に行く)の才媛で話はうまいのだが、学問とは何の関わりもないお話である。

また、Barbara Thieringの『イエスのミステリー』が高尾利数という馬鹿によって翻訳されていたことも知っている(なぜ、馬鹿かというと彼の馬鹿本を読んでいるから)。彼女は確かに斯学によって学位を得た人だ。だから、少なくとも専門家であることに変わりはないが、一種の気違い女だね。こんなことで有名になった彼女よりも無名の私のほうがまともだよ。(影の声:まともな人が、人様を馬鹿だとか気違いだとか矢鱈に言うか?)

アメリカの中学生相手の歴史作家で、私のお気に入りの方がいる。当地ロスアンジェルスの生まれ育ちだが、現在はネブラスカアイダホで執筆している。素晴らしい英文で、自分で歴史を勉強して、資料を揃えて歴史上の人物を物語仕立てにする。『坂本龍馬伝』みたいなものだ。それはそれなりに見事で、私は中学生の読み物ながら楽しんでいる。しかし、彼女は歴史家などではなく、学問とは別であることを自覚しているし、中学生も大人もアメリカの読者はそのことをしっかりとわきまえている。

ああ、あああー、話が逸れてしまった。また、よろしくない言葉(indecent words)を乱発して失礼した。しかし、私は(それほどまでに)日本の知的状況を案じているのだよ。というわけで、我々の問題とする資料は文書化したものであることを確認した。このことをいっそう明確に理解するためには「福音」という言葉と「福音書」という言葉についてもおさらいしておいたほうがいいのだが、それはまたの機会としよう。(いやー、福音を話題にしようとしたのだが、以上のような道備えが必要だったというのが本心じゃよ。)