Comments by Dr Marks

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評論家が小説を読むとどうなるか(答は本文に)「これはちょっとした批評の藝」のまねごと

以下、評論家曰く。

老若善女が集う・・・猫の足の踏み場もないほど」なんたる表現、驚愕のシュール・リアリズムではないか。現実を超えて、現実がある。しかも、これほど簡潔な表現のうちに深い含蓄のある文章を書ける小説家が、今まで文壇に現れたことがあったであろうか。


解説しよう。「老若善女が集う」とは「老若男女」と「善男善女」を非凡な才能を発揮して合成したもので「老若の善男善女が集う」と普通ならするところであろう。ところが、そういった冗長かつ舌をかまんばかりの表現には飽き足らず、「老若善女が集う」と言い切ったところに著者の真骨頂がある。


しかし、何ゆえに善女を採用し善男を切って捨てたのであろうか。この辺りは、著者の従来からの社会的言動ならびに常々書いてきたものがヒントとなるかもしれない。彼は、隠れフェミニストと考えて間違いはない。司祭は男だけにするべきと主張しておいて、実は、教会における女性の役割は男性よりも勝ると機会あるごとにもらしていたのは著者である。


以上の解釈に間違いはなかろうが、いっそう難解なのは「猫の足の踏み場もないほど」である。ここにおいても何ゆえ猫が出てくるのか、一瞬とまどったものである。しかし、私が即座に思いついたのは、次のような英語の表現だった。つまり、英語で「混んだ道」を何と言うか。Busy traffic である。ここで、「混んでいる」はビズィーで表現されたが、ビズィーにはもちろん「忙しい」という意味がある。


聡明な読者は、既に気づかれたであろう。著者は半分英語的に思考しているとすれば、混んでいる道のイメージは「猫の手も借りたい」となるのが当然なのだ。まさに、シュールな表現とはこのことを言うのではないだろうか。しかし、日本語による文学表現とすればいかがなものであろうか。もちろん、このような表現は、本来の日本語を危うくするという意見も多かろう。それは理解できる。


ただ私としては、このようなシュールさは、もはやシュールではなく、自然なかつ現実的な表現となっているのではないか、という見方をとりたい。今、日本の若者の間では急速に国際化が進み、日本語をいつくしむと同時に国際語としての英語にもネットやさまざまな藝術を通して親しんでいる。Busy traffic 程度の英語表現は常識であろう。


従って、単に「足の踏み場もない」という陳腐な慣用句に飽き足らないのは、著者というよりは現代の若者を中心とした読者のほうなのではないだろうか。「老若善女」や「猫の足の踏み場もない」が、遠からず慣用句として定着し、辞書に収録されるのも間違いないだろう。しかし、その頃には、新しかった表現も古くなる。そのときにまた、この著者のような天才の新たな出現を期待したいものである。

著者曰く(告白す)。

単にわしが言い間違っただけやん。ほいたら、語呂もいいし、おもろいのでそのままにしただけや。わしはフェミニストなどじゃおまへん。単に女好きでんねん。それに、このブログはもともと猫ブログどす。なるたけ、猫の登場を増やそうとしただけや。

「批評の藝」という言い回しが小谷野氏のオリジナルかどうかは知らない。少なくとも、ブログの題とした「これはちょっとした批評の藝」というフレーズは、批評家が何かを発見して論を進めるテクニックとして小谷野氏の著作にあったものである。触発されて堂々と<無断>流用した。まだ読んでいない人は読むべし。小谷野敦「『こころ』は本当に名作か―正直者の名作案内」(新潮新書308;東京:新潮社、2009)p. 62