Comments by Dr Marks

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こぼれ話的に最近読んだ論文など(面倒なのでブログに具体的な論文名など書かない、知りたければこっそり教えてあげる)

論文などというのは、(単行本も同じだが)標題をみて序論か結論を斜めに読んでみれば精読に値するかどうかはすぐにわかる。しかし、たまには外れもある。ああ時間の無駄をしたということになるが、逆もあるだろうな。何だゴミ、と思って捨てたのが宝だったりとか。まあ、そんな中で馬鹿馬鹿しいのとか、あらまあいいじゃない、というものなど紹介してみる。

使徒行伝というのは16章でいきなり「彼らは(三人称複数)」から「我らは(一人称複数)」に変わる。面白いので昔からその理由については議論されてきた。中でもどちらが記録の信憑性に寄与するかという議論は主要なものの一つだ。今回も、そのことについて、他の古典などと比較検討したものがあった。

確かに、ヨセフスなども意識的に、自分について述べるときに三人称(この場合は単数)を使ったり一人称を使ったりするが、無自覚な作家もいただろうし、著作権の自覚などもなかったのだから、あまり何かの役に立つとは思えない。三人称で書けば、一歩離れた位置からの記述で客観的な効果がある、と主張したと思えば、一人称で書けば直接の目撃者であるという効果があるそうだ。

それなら、信憑性という点では、どちらでもいいことになる。彼らだって我らだってどちらでもいい。どちらでもいいことにいい加減なことを言う。とくに今回読んだ論文のように、かび臭い信仰告白というか、一人称複数(我らは)なら「神共にいる我ら」となるなどと聞けば、のけぞりたくもなるものだ。よしてくれよ、お兄ちゃん。

列王記下の2章の終わりには、預言者エリシャ君がべテルの山で子供たちに「はげ頭」と言われたからといって42人もの子供を熊を使って殺めるシーンがある。ひどいもんだ。どういうつもりかね。よくべテル保育園とかべテル幼稚園というのがあるが、そういう名前を見るたんびに不憫な子供たちを思い出すよ。

それで、その謎も解けないうちに次の3章の終わり(27節)には、これまた昔から論争の種の難しい言葉がある。証拠に、日本語訳の『口語訳』、『新共同訳』、『新改訳』などは、普通たいした違いはないのだが、ここは随分といろいろな訳になっている。今日はめんどくさい病にかかっているので3者の訳をここに紹介するのは面倒。直接見てください(聖書を読ませる高等技術)。

もっとも、ヤハウェの神がイスラエルに対して怒るのは筋違いなので、モアブの神ケモシェがイスラエルに対して怒ったと解釈することも昔から行われた。どうやら『新改訳』などはそんな感じがするな。『口語訳』は誰が怒られているのかちょっとごまかしたところがある。『新共同訳』はその点素直に訳している。素直に訳すから疑問もわく。

今日読んだものでは、「ケツェフ(怒り、とくに神の怒り)」という単語の語根に注目して、何か疫病のようなものではないかと予想していた。勝っている戦なのに突然ケツェフが降ってきたのでイスラエルのヨラム王の軍勢は国に帰ってしまう。しかし、実際は籠城したモアブ軍は水も何もかも断たれて疲弊し疫病なども広まっていたはずだから、すでに勝負は付いたも同じであった。その病が近くにいる自分たちにも来るようになったので帰国したということらしい。

ふむ、面白い。それならケツェフがヤハウェではなくモアブの愚神ケモシェであったなどという馬鹿げた解釈をしなくてもすむ。第一、ケモシェなんて祭司と一緒に捕虜になるような作り物の神にすぎない(エレミア書48章参照)。ほうほう、突然に包囲を解いて帰国したのではないのね。実際は決着が付いたし、自分たちも病気になりそうなので帰ったのね。なるほど、なるほど。

しかしね、ヨラム王なんてエリシャがいうように、ヤハウェの神にそれほど重んじられているのではないことは3章の初めにも書いてあるでしょう。突然と思わずに、文字通り、ヤハウェの神の気に障ったと考えてもいいのではないか。無理に「謎」などと思わなくてもいい。

そうそう、モアブの神ケモシェがイスラエルに対して怒ったという理由だが、モアブ王は自分の息子を連れてきて城壁の上で焼いてしまうのだよ。進退窮まったモアブ王が最後の手段で自分たちの神に頼むわけだな。自分の子供を火あぶりにしてまで。べテルの子供たちもそうだが、情けないわ。聖書は面白いから読んでみてくださいなんて言えないな。もはや悪徳の書だ。えっ、そういうとこ読んでみたい? 列王記下の2−3章だよ。読んでみる?