Comments by Dr Marks

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もろに教科書であり、お高い人なら書かない本『現代キリスト論』

Contemporary Christologies: A Fortress Introduction

Contemporary Christologies: A Fortress Introduction

明日紹介しようと思っていたが、今、変な時間に目覚めたので簡単に紹介しておく。標題のとおり、お高い人なら決して書かない本であるが、いざ書こうとするとなかなか大変なんだ、こういうものは。

著者はカナダの神学者で、これといった著作はないが(論文はある)、この本は話題になっている。実際の講義録を本にしたといえばそれまでだが、普通は何らかの自分の立ち位置から焦点を絞った特殊講義になるので、このように広範囲な概論をすることは稀である。その意味で、これは役に立つと思う。少なくとも、ここから学びを拡大することは可能だ。

現代キリスト論を英語にすると「現代」は必ず contemporary を使う。勝手に modern などとしてはいけない。Christology というのは伝統的な組織神学なら、それぞれの神学的な立場からナザレのイエスが「キリスト(ギリシア語で油注がれた者)」ならば、その「キリストとはいかなる者であるのか」という議論になるが、現代が付くと、歴史的な解釈に根本的な反省を加えたうえで、現代人である我々にとっていかなる者かということになる。学者それぞれが描いたタイポロジーと言ってもいい。

著者シュヴァイツァーhttp://bit.ly/dpZ8w3)は、最新半世紀の15人の神学者を五つのグループ(タイプ)に分けて紹介している。どういう人がいるかは、アマゾンの書評(http://amzn.to/bEm7L0)も結構いいし、別のネットでも内容が一部読める(http://bit.ly/d5rHKN)ので、どうぞそちらを参照願いたい。ここで、名前等を改めてタイプするのはかったるい。

ところで、余はろくに聖書学の勉強もしないうちに大学院でのテーマを現代キリスト論にしていた。その研究計画で博士課程にも受け入れられていたのだが、やっているうちに人は何とでも勝手にキリストを名付けることが可能であり、そんなことはどうでもよくなった。キリスト論を含めた「神学」はおしゃべりなのである。

そう思っていた矢先、リチャード・ボーカム教授が新約学の大学院生だけ集めて昼食会をしたことがあった。余は神学専攻であったのに新約学のふりをしてその食事会に潜行した。ある学生が、先生はどうして新約学を専攻することに、と聞いたら、ともかくね、大きな声では言えないが、神学や倫理学のようなどうとでもなるおしゃべりよりはしっかりとした事実に基づく聖書学をしたかったんだよ、と答えた。

余は、ああ、やはりそうか、と思ったものだ。そこで余は、神学とはいっても半分聖書学のようなテーマを選んだ。幸いにして、我が師も同じような考えの人だったので助かった。また、師はセカンド・メンターとして、よい新約学者をあてがってくれたし、外部エグザミナーの新約学者も余にとってはラッキーなめぐり会いとなった。

さて、ならば何でこんな本を紹介するのかと言うだろう。君、グッド・クエスチョンだよ。余は、キリスト論など、学問としては人生をかけるつもりは一切ない。しかし、個人としてのキリスト像(読者は、歴史的なイエスとは別であることに注意)のためにも、また、人は自分が生きている時代のエートスから逃れられないという意味においても、現代の神学者が「キリストとはいかなる者であるのか」をどのように論じているのか概観しておくことは、無駄でないどころか、(とくに君が信仰者であれば)大いに役立つのではないかと思うからである。