Comments by Dr Marks

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 第3章

アイザック・シンガー原作『チビの靴屋たち』 (もう一つのギンペル物語)

第3章 ギンペルがアメリカに移民する

だからこそ、ことわざにも言うように、「人が計画すると神が笑う」のだ。ある日、アッバが長靴に取り掛かっていると、長男のギンペルが仕事場にやってきた。彼のそばかすのある顔は上気していて、ヤマカの下の筋入り金髪を振り乱していた。自分の仕事台に行くのではなく、父親の傍らに来て停まると、おずおずと挨拶してから、思い切って言った。
「父さん、話があるんだ。」
「ほう、話してみなさい。誰も止めやしない。」
と父親が答えると、ギンペルは叫んだ。
「父さん、僕はアメリカに行きたいんだ!」

アッバは、仕掛けていた靴を思わず落としてしまった。これ以上に聞く耳持たぬと、彼は眉を吊り上げた。
「どうしたんだ。盗みでもしでかしたか。それともケンカにでも巻き込まれたか。」
「いいえ、父さん。」
「なら、どうして遁走しなきゃならんのだ。」
「フランポールに、僕の未来はないんだ。」
「どうしてだめなんだ。お前は稼業を持ってるじゃないか。神がお望みなら、いずれここで嫁を取るだろう。前途になにもかもあるだろうに。」

「僕は小さな町に飽き飽きしたんだ。この町の人も嫌になった。ここは腐った沼のようなんだ。」
「水はけをよくしておけば、そんな沼などなくなるだろうに。」
「違う。父さん、そんな意味じゃないんだ。」
アッバも怒って叫んだ。
「じゃあ、どういう意味なんだ。ちゃんとわかるように言ってみろ!」

少年は説明したが、アッバには一言も理解できなかった。アッバには、こいつは革からシナゴーグと国家に反逆する毒素を吸い込んで、何か悪い霊にとりつかれているとしか思えなかった。

ギンペル曰く、ヘブル語の教師は子供たちを叩き、女たちは汚物缶はドアの外に置く。店屋の主人はゴミを通りに掃き出す。ちゃんとしたトイレなどどこにもないから、公衆はそれぞれ好き勝手に浴場の後ろとか空き地に垂れ流し放題。伝染病・疫病を奨励しているようなものだ。

ギンペルはまた、民間治療医のエスレエルや仲人屋のメハエレスを馬鹿にした。更に、ラビの裁き所や浴場管理人、洗濯女、貧者の家の管理人、尊敬されている職業人で慈善家まで、ギンペルの批判から外れることはなかった。

初めアッバは、彼の気が狂っていると思ったが、ずっと彼の長舌を聞いているうちに、明らかにユダヤの義の道に迷っているのがわかった。無神論者のヤコブ・レイフマンというのが、かつてフランポールからそれほど遠くないシェブレシンの町で活動していた。イスラエルを中傷する彼の弟子の一人が、フランポールのおばを訪ねて来ては、役立たずどもの中からかなり一味を集めていたこともある。だが、まさかギンペルがそういう輩の手の内に落ちるとは、アッバはついぞ考えてもみなかった。

「父さん、父さんはどう思う。」
アッバはしばらく黙して考えた。今ギンペルと議論してもらちはあかないのをよく知っていた。そして、格言を思い出した。曰く、一個の腐ったリンゴが樽一杯のリンゴを駄目にする。
「そうだな、私にはどうにもできん。行きたければ行くがいいさ。止めるつもりはない。」
そう言って、アッバは仕事に戻った。

しかしペシャは、そう簡単には納得しなかった。彼女はギンペルにそんなに遠くに行かないでくれと頼んだ。泣いて、一家の面汚しにならないでくれと拝み倒そうとした。墓地にまで走って行って、彼女のご先祖たちのお墓の前で、死者からの執り成しを祈った。だが、結局は、アッバが正しいことを確信せざるを得なかった。いかなる説得も無駄であった。

ギンペルの表情は、靴の革のように固くなり、彼の黄色の目には険しい光が出ていた。彼だけが、家の中でよそ者のようであった。その夜、友人たちと連れ立って外出すると、朝になって帰って来てから、祈祷ショールと経箱、下着に毛布、そしてゆで卵をいくつか持つと、もう出立の準備は整っていた。彼は路銀に十分な額を貯めていた。

母親は、もう翻意が無駄なことを知って、保存食用のビン、さくらんぼのジュース、毛布以外の夜具と枕も持って行くようにギンペルに勧めた。しかし彼は断った。国境を密かに越えてドイツに潜入するつもりだから、身軽なほうが好都合だったのだ。結局、彼は、そのまま母親にキスし、兄弟たちや友人たちに別れの挨拶をしてから出立した。

アッバは、怒ったままで息子と別れたくはなかったので、レイヴェッツの駅まで馬車に乗せて連れて行った。その日の夜半になって、シューとかポーという騒々しい音とともに汽車が駅に着いた。アッバにしてみれば、機関車のヘッドライトは恐ろしい悪魔の目のようであったし、火の粉と煙の柱となった煙突と蒸気の雲には辟易した。停車して機関車がヘッドライトを消すと、辺りは前よりも暗くなった気がした。

ギンペルは気違いのように荷物を持って汽車に沿って走り回り、父親は彼の後を追って走った。別れ際の最後の瞬間に、息子は父親の手にキスをしたが、アッバはその後もギンペルの乗った汽車の後を追いながら「元気でな、信仰を捨てるのじゃないぞ!」と暗闇に向かって叫んだ。

汽車は、アッバの鼻に煙の臭いを残し、耳に汽笛の音を残しながら去って行った。彼の足元の大地が震えていた。まるで息子は悪魔にさらわれたかのようであった。家に戻ると、ペシャが彼の腕に泣きながらすがってきた。彼は彼女にそっとささやいた。「主与え、主取りたもう・・・」。


それから何か月か、ギンペルから何の便りもなかった。アッバは、それが家を離れた若者の常であることを知っていた。彼らは、最も大事な家族も忘れてしまうのだ。格言にあるように、「去る者日々に疎し」なのである。彼から何か知らせがあるなどとアッバは期待もしていなかった。ところが、ある日、アメリカから手紙が来た。

アッバは、息子の筆跡であることがすぐにわかった。国境は無事に通過できたこと、いろいろな珍しい町々を見た後、船旅は四週間掛かったこと、律法に反する食べ物をとりたくなかったので、旅の間はジャガイモとニシンだけで暮らしたことなどを、ギンペルが書いていた。

大西洋はとても深く、波も空のように高かった。飛び魚は見たが、人魚や半人魚を見ることはなく、彼らの歌う声も聞かなかった。ニューヨークは大きな町で、建物は雲にまで届く高さだ。汽車は屋根の上を越して走るし、異教徒どもは英語を話している。誰も道を歩くのに下を向いて歩かず、しっかりと顔を上げて歩く。

ニューヨークの町で、多くの同郷の人々に出くわした。彼らは皆ショート・コートを着ていた。彼もだ。実家で習った仕事がとても役立った。何もかも申し分なかった。生活に必要な稼ぎは得ていた。後でまた、長い手紙をしたためるとも書いてあった。父と母と兄弟たちにキスを送り、友人たちによろしくと言って、手紙は終わっている。まあ、つまりは色好い手紙である。

二度目の手紙で、ギンペルは恋に陥り、その娘にダイアモンドの指輪を買ったと知らせてきた。彼女の名前はベッシーで、ルーマニアから来た娘だった。彼は「衣料産業で」働いていると、英語の at dresses という表現をわざわざ入れて説明した。お陰でアッバは、この英語のところで真鍮のフレームの眼鏡を掛けて、しばらく意味を取りかねていた。

どこでこいつは、こんなに色んな英語の単語を覚えたのか。三番目の手紙では、とうとう結婚したと書いてあって司祭(a reverend)が司式してくれたと、これも英語で書いてあった。その新妻と一緒のスナップ写真も同封されていた。

アッバには、とても信じられなかった。あの息子が、紳士の上着を着て山高帽を被っていた。花嫁は、伯爵夫人のような裾とヴェイルの付いた白いドレスを着て、手には花束を抱えている。ペシャは、その写真を見て泣き出した。ギンペルの兄弟たちも呆然としている。

近所の者たちは走って来るし、友人たちも方々から集まって来た。彼らはギンペルに関してあらかじめ誓っておけばよかったとさえ思った。魔法で黄金の国に神隠しされたギンペルが、そこでお姫様を嫁にめとるという運命をだ。まあ、まるで町に来る行商人が売る物語本にあるような話ではあるが。

その後の話を掻い摘んで言えば、ギンペルがゲッツェルにアメリカに来るように促し、ゲッツェルがトレイテルを呼び寄せ、トレイテルにゴデルが続き、更にフェイベルがゴデルにという具合であったが、とうとう上の五人の息子たちが下のリッペやハナニアまで連れ出してしまった。ペシャは、ただ手紙を待つだけの生活になってしまった。戸口の柱に献金箱を取り付けて、息子たちの手紙が来るたびにスロットから硬貨を落とし入れるようにした。

アッバは一人で働いた。もう見習い弟子など必要がなかった。今や生活の掛かりは少ないから、少ない収入でもやっていけたのである。実際は、もう靴職人を辞めても困らなくなっていた。息子たちが国外から送金してくれるからである。それにもかかわらず、彼はいつもどおり早く起き出して、遅めの夕方まで仕事場に座っていた。

彼のハンマーの音が響くと暖炉の上の鈴虫が唱和し、屋根のこけら板はそのたびにきしんだ。しかし、彼の心は落ち着かなかった。何代にもわたり、チビの靴屋はフランポールに住んできた。突然、鳥が籠から飛び立ってしまった。これは、何か彼への罰か裁きなのだろうか。もう、訳がわからない。

アッバは、穴をあけ、それを掛け具に差し込みながらつぶやいた。「だから、汝、アッバよ、お前が何をしているか知っていて、神が知らないとでも思うのか。恥を知れ、馬鹿者! 神の意志が成るだけだ。アーメン!」

(続く)