Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

「悩むな」の真の意味

余は謙虚で無気力な聖書学者であって牧師の真似事もすることはするが、元々そんなことは嫌なんだ。葬式だけは困っているならしてあげる。しかし、それ以外はあまりしたくない。無気力なんだから。それに近頃はオジンだ。

ましてや説教などはしたくはないのだが、「悩むな」の真の意味について、ちょっと話してみる。ほらっ、マタイ伝6章25節以下の話だよ。(ルカ伝12章22節以下も同趣旨。)何も思い悩むな、空の鳥を見なさい・・・野の花を見なさい・・・という話。読み進めば、こう書いてある。「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

ここで誰もが何となく安心する。大したものだ。今日はとりあえず寝ようと元気づけてくれるわけだから。しかし、明日になっても解決していなければどうするんだ。そのときは明後日まで待つか。馬鹿馬鹿しいが、ひょっとしたらそれが正解かもしれない。

そもそも「思い悩むな」とイエスが言うのは、「お前なんか思い悩んでも仕方なかろう」ということなのだ。それは単純に金欠で困っているときでも同じこと。本当に辛ければ居ても立っても居られず、「ああ、神様、お金をください」と願ったり祈ったりはせざるを得ないだろう。それは仕方ないとして、ぼんくら頭で対策など講じても上手くはいかない。ますます嫌気と悩みが身を亡ぼしにかかるだろう。

委ねて放っておくに限る。それこそ信仰だ。もっとも、キリスト教徒は、これがあのイエスのありがたい教えと思っているだろうが、違う。神が何であり人が何であるかを徹底して理解しているなら、ユダヤ教徒も「悩むこと自体が不信仰」であることは常識だ。イエスより後代のタルムードにもあるが、イエス時代の口伝にもあったであろう。イエスがそれを知らなかったはずはないし、福音書に書き留めた弟子たちにも馴染みの話だったに違いない。

おい、君。君が悩まなければ解決しないことなのか。神様より頭がいいと己惚れているわけじゃないよね。君が神様にアドヴァイスするわけ?