Comments by Dr Marks

出典を「Comments by Dr Marks」と表示する限り自由に引用できます

えっ、マタイ伝は復活疑いの記録?

ある原稿段階の本の一節より(著作権取得済み) 

 マタイ伝には次のような記録がある。ただし「記録」といっても今日的な客観的な記録と考えてはいけない。何か伝えたいという思いがあって「何か」を伝えているのであって文字どおりではないかもしれないからだ。もっとも現代的な記録であっても記録する者の主観性を完全には消し去ることはできないのだから、そこに「解釈」の問題が横たわっているとはいっても、とりあえずは「文字どおり」に追わざるをえない。
 また、復活に至るもろもろの状況まで本書で紹介するのは紙数が許さないので、基本的には復活したイエスの記事、すなわちイエスが復活して現れたくだりに限定する。もしも読者がその前にまで興味を抱かれるのであれば、前述の聖書を直接手に取られるかネットに上げられている聖書本文を参照いただきたい。
 マタイ伝の出現記録はいずれも二八章にあるが、まず次のくだりを引用する。 

マタイ伝の出現1〔九節〕すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。〔十節〕イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」 


 さあ、読んで読者諸君はどのような印象を持つであろうか。ここに「婦人たち」と言われているのは、この引用の前に「マグダラのマリアともう一人のマリア」であると説明されているが(二八章一節)。マグダラのマリアは、イエスに七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女であろう(ルカ伝八章二節参照)。もう一人のマリアは候補者が多く誰なのかわからない。そもそもマリア(ヘブル語はミリアム)という名前は当時も極めて多かった。イエスの母もマリアであった。
 さて、彼女らは、処刑されて死んだはずのイエスが再び生きて立っていると、すぐに認識できたのだろうか。見慣れた人の顔を見間違える可能性は低い。この両人「マグダラのマリアともう一人のマリア」は、イエスが間違いなく埋葬されたのを確かに目撃していたのだから、まず墓の場所は間違いないのであろう(二七章六一節)。では、単に気絶したままか虫の息で墓に入れられたのが三日目に元気になって出て来たのだろうか。それもありえない。死んだことは確かだ。
 なぜなら処刑の場で、「大勢の婦人たち」、中でも「マグダラのマリアヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母」が十字架上で死んでしまった一部始終を見ていたのであり(二七章五五−五六節)、死んだはずの者がまさか生き返るとは思わなかったであろう。たとえ当時の人たちでも、そんなことは常識に反していたことは本書の初めに紹介したとおりである。

 もっとも、マタイ伝は、ファリサイ派(律法に厳格でイエスに敵対したユダヤ人たち)の証言として、イエスが生前「自分は三日後に復活する」と言っていたことを基に墓に番兵を置かせたことをわざわざ記録している。だから、婦人たちを含め弟子たちがイエスが生き返ることを期待していたとも取れるが、実際は弟子たちが死体を盗み出した上で「イエスは死者の中から復活したなどと嘘を言うことをファリサイ派が防止したかったからであるかもしれない(二七章六二−六六節)。また、反対にマタイ伝がことさらに墓番について書き記したということは、イエスの弟子側も敵対する側も、単に墓が空であることをもってイエスの復活を証明することができないことを自覚していたと読み取ることができる。
 ここでの婦人たちの行動を判断して、復活を信じて目の前のイエスとみなされる人に取った態度かどうかを見極める決め手はないと、今いきなり私が申し上げたところで、読者はとまどわれることだろう。説明する。聖書学者は、後世の者が思うほど、彼女らがこの場で復活を信じていたかどうかを問題にするし、場合によってはイエスとは別人を復活したイエスと見誤ったかもしれないとも考えるのである。
 もちろん、マルコ伝の著者はイエスの復活のくだりを伝えようとしているのであるから、意図を読み取れば、彼女らが遭遇したのは復活したイエスであるというのが正解である。純粋に信仰の立場に立てばそれでいい。それならば聖書学者は疑っているのであろうか。いや、問題にすることと疑うことは必ずしも同じことではない。むしろ(すべてとは言えないが)多くの聖書学者は熱心なキリスト教徒であり、しばしば護教的になることすらある。従って、問題にするというのは、否定的な問題提起というよりも、より深く聖書を理解しようとする態度の表れにすぎない。では、ここでの問題を少し考えてみよう。

 聖書本文の「足を抱き、その前にひれ伏した」行動は、確かに高貴な者への敬いの態度であるし、「ひれ伏した」と訳されているギリシア語プロスクネオーには「相手の足下にひれ伏す」すなわち「畏敬の念をもって拝む」という意味があるから死を克服した神聖なるイエスへの畏敬の態度と取れないこともない。しかし、そもそも婦人たちに挨拶した者は復活のイエスであったのだろうか。
 実は、十節の復活のイエスの言葉とされる「恐れることはない」は、二八章の初めに墓が空になっているシーンで天使が語ったそっくりそのままの言葉なのだ(五節)。天使は、墓の番兵も婦人らも思わず畏怖する威厳があり、恐れおののく彼女らに、「恐れることはない」とイエスとまったく同じ言葉で語りかけ、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」(七節)と伝言する。
 天使の言うとおりであれば、彼女らが復活のイエスに会うことができるのは、墓のあるエルサレムではなくガリラヤという湖のある地方でなくてはならない。そこはエルサレムの北方およそ百キロの距離にある。天使が伝えたこととは矛盾して復活のイエスエルサレムで彼女らに会ってしまったのであろうか。実に不思議なのだが、この天使の言葉と復活のイエスの言葉とされる二重記述(ダブレット)についてはさまざまな説が出現した。それらに一々言及する余裕はないので、今後ほかの福音書との比較でも問題となるであろういくつかの紹介にとどめて次の聖書記述に進む。
 一つは復活のイエスの出現はガリラヤかエルサレムかという問題である。当初から両方の可能性はあった。公式の出現はガリラヤだとしても、埋葬の地エルサレムで先に墓を訪れた女たちに姿を見せるのは自然かもしれないのである。二つ目は天使と復活のイエスが女たちによる単なる二重写しなのかどうかの問題である。あまりにも仰天した女たちに天使が(あるいは墓にいた人間が)彼女らに単に念を押したのをイエスの復活の姿と勘違いした可能性である。三つめは二重記述ではあるが、天使は「弟子(マセィテース)たち」に伝えよ(七節)と言ったのに対して復活のイエスは「兄弟(アデルフォス)たち」と言い換えた(十節)わずかの違いのことだ。ヤコブたちイエスの兄弟を兄弟と言ったのか、イエスにとって弟子たちはすでに彼の真の兄弟であったのか、それを問題とすることはできるし、後の議論に関わってくるかもしれない。

 次は同じくマタイ伝二八章の末尾にある、いわゆる「大宣教命令(Great Commission)」(二八章一九〜二十節)の前にある記述である。なお、しばしば一六節から二十節を大宣教命令とする説があるが間違い。宣教命令そのものは十九節から二十節であるし、イエス自身の言葉すべてとして一歩譲っても十八節からでなければならない。以下の二つの節は、復活のイエスからその命令が発せられる状況の説明なのである。
 

マタイ伝の出現2〔十六節〕さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。〔十七節〕そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

 なんというマタイ伝の率直な記述であろうか。復活のイエスに会いながら、イエスであることを疑う者もいたのである。しかも十一人の弟子というのは裏切りのユダを入れると十二弟子のことであり、刑死前のイエスにもっとも近かった者たちである。見忘れるということがあるであろうか。
 ともかく、すでに見たマタイ伝の予告どおりに復活のイエスガリラヤで弟子たちに会う。このイエスが指示していた山というのは、おそらく弟子たちになじみの山であろうと思うのだが、いまだにどの山なのか有力な見解はない。ここで「山」と訳されている原語の「オロス」は丘や小高いところも指すので、日本語の山というニュアンスではなかろう。そもそも「ガリラヤ」がガリラヤ地方全体を指すのであればともかく、イエスや弟子らのガリラヤはガリラヤ湖畔のことであるからいわゆる「山」はない。
 マタイ伝のガリラヤの山で思い起こすのは「山上の説教(山上の垂訓)」といわれる場面である(マタイ伝 五〜七章参照)。五章一節の山も原語はオロスであるし、状況からみて湖畔であることが明らかだから伝統的にこの山を湖畔の丘(候補地の一つがカペナウムの村に近い丘)としている。しかし、ルカ伝の並行箇所(ルカ伝 六章参照)には山ではなく平らな所で説教したとあるが、その前に山(オロス 十二節)から下りて来たことに変わりはない。
 なお、四福音書は多くの話題が共通しておりまた互いに矛盾も多い。この四福音書間で同一テーマの箇所をふつう並行箇所あるいは並行記事(parallel passage)という。また、並行箇所は四福音書だけの並行関係だけではなく、旧約聖書との並行や同一福音書内での並行もある。四福音書間で同一テーマがあり矛盾があるのはよくないと考えて全体を調整して一つの福音書にするという二世紀シリアの神学者タティアヌスによる『ディアテッサロン』(ギリシア語で「四つから」という意味の本)のような歴史的試みがあったが、教会の主流は四福音書が矛盾を含んだままでも現在のようにそれぞれが同様に読まれる道を選んだ。
 同じ事件を目撃しても報告者が違えば違うのであるから当然であろう。その矛盾する報告から真実を探し求めて行かなければならない。世の多くの出来事は、筋が通っているから正しい、矛盾がないから正しいとは限らないのである。実際の出来事は複雑であるのだから無理に単純化することは時には真実をゆがめることになりかねない。
 それはさておき、話を戻そう。男の弟子たち(十一人の使徒)もまた先に見た女たちと同様にまずひれ伏す。すでに述べたようにこれは単なる通常の挨拶ではない。神聖なるものに対する畏怖の表現でなかったとしても、少なくとも貴人あるいはそれに類する対象への行動である。記事ははっきりと「イエスに会い」とあるから、イエスであることを前提としている。しかしマタイ伝のその直後の記述は興味深い。イエスであることを「疑う者もいた」とある。イギリス現代の新約学者N・T・ライトは、これをマタイ伝の「耳障りなメモ(jarring note)」と称した。
 そもそも復活のイエスなのであるから、誰も何の疑いもなく「イエス」がそこにいなければならないはずであるが、古来から受け継がれ、また我々が日常目にする聖書の記述は必ずしもそのようには受け取れないのである。高い山での(たとえそれほど高くない丘であっても)復活のイエスの顕現を神的顕現と読み取る神学ならば、旧約聖書の記述の「ほのめかし(allusion)」としてモーセとアロンが神とシナイ山で出会う記事を思い起こすであろうが(例えばドイツのカトリック新約学者ルドルフ・シュナッケンブルク)、「ほのめかし」は根拠ではなく、あくまでもレトリックであることを忘れてはならない。
 ついでながら、「疑う者もいた」を「彼らは疑った」すなわち一部の者が疑ったのではなく全員が疑ったとする読み方がある。伝統に反してその読み方を取るのは少数派ではあるがアメリカの新約学者ドナルド・A・ハーグナーの議論は先鋭である。また、ここの議論は有名でP・W・ヴァン・デル・ホルスト(オランダ)、ロバート・H・ガンドリー(アメリカ)、ウルリッヒ・ルツ(ドイツ)などの新約学者が持論を展開している。ギリシア語原文の「ホイ・デ」の訳が話題なのだが、実はギリシア語を学び始めたばかりの者ほど「彼らは疑った」と訳しがちなのである。
 ホルストなどは伝統的な解釈にそって、ここの「ホイ・デ」を「ある者は・・・しかしある者は・・・」の慣用句の前半が省略されたものだと主張する。つまりギリシア語の慣用的成句に慣れたものであれば「しかし、ある者は(一部の者が)」と素直に訳せるというのである。逆に、先に述べた初学者なら、「しかし、彼らは(十一使徒全員が)」と訳すことになる。もちろんハーグナーはギリシア語の達人であり、ホルストの言い分は理解している。その上で、ホルストの結論が余りにもヘレニズム的語法に囚われておりマタイ伝の特徴を無視していると批判し、全員が疑ったと結論づけている。
 いずれにしろ、たとえ二人であろうが三人であろうが疑ったことに変わりはないのである。ガンドリーやルツは、それをマタイ伝に特有の弟子たちに対するイエスの叱責の言葉「信仰の薄い者たち」(マタイ伝六章三十節ほか三か所)の究極と捉えるのがの結論であるが、「百聞は一見に如かず」も時には有効ではなく、人間の認識力というのが信仰の助けを必要とするもろいものであることの証左かもしれない。もっとも、それは彼らの見た者が復活のイエスであればの話であって、我々はそこまで結論を急がなくてもよかろう。