Comments by Dr Marks

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深化する比較と馬鹿の比較

世間には比較何々という学問が蔓延っている。というより、比較のあとに何か付け足せば学問になる、あるいは学問に見えると思い込んでいる節もある。例えば、比較ブログ論、比較匿名論、比較猫猫論、ナンチャッテ。

学問の方法として比較法(comparative method、比較研究 comparative study)が初めに表に出てきた分野として、比較言語学が挙げられる。初期のものとしては比較宗教学も挙げられよう。しかし、比較すること自体は、学問上の必要条件で殊更なことではない。むしろ、そこから何が出てくるかが問題であり、出てきたものの根拠を比較法という「方法」そのものに置く、あるいは根拠が「方法」そのものにしかないという脳天気については、この方法が登場した18−19世紀においても論争の種であった。

いや、それ以下の低レベルの嘆かわしい状況は、比較によって新しい地平に目覚め(ガダマー参照)、欣喜雀躍、有頂天の挙句、「やややっ、同じだー、俺は大発見をしたぞー、天才だー、共通の原理があるではないかー」と大言壮語し、ものごとを単純化するだけで深い理解を自ら閉じる学者や学界の現状である。そんな馬鹿な、と思うだろう。ところが実際「馬鹿」なのだ。馬と鹿との共通性ばかりに目が行き、差異を判別する能力もないし、ましてや比較によって理解を深化する洞察力など更々ない。

昨晩、連れてきた猫と遊ぼうとしたら、急用で外出を余儀なくされた。帰ってからなので、三分の一ほど残してまだ読み終わってはいない。しかし、これは比較法の本道を進んでいることだけはわかる。矢鱈と鬼の首を取ったそぶりをしないこともいい。そんな簡単なものではありえないわけだから。洞察の過程と結果を記述してありさえすればいいのだ。

猫猫先生のこの新書は、新書ながら、なかなか骨の折れる本でもある。読みながら途中で考え、読者が比較されている作品を対照するにしても、新書ゆえに厳密な引用箇所を示していない。専門家あるいはその作品の愛読者ならいざしらず、あれはどの辺りと検討をつけるのは大変だ。しかし、妙に意気込みが伝わり、細部はまあいいか、いずれ見てみよう、ということで引き込まれる本である。深化する比較の一例だろう。