Comments by Dr Marks

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コメントできないブログへのロング・コメント&ショート・コメント

ロング・コメント

いやはや今日のタイトルは平仮名対カタカナ=5:22、すなわちカタカナが平仮名の4倍強だ。この程度の短いものはまだいいが、夕食後に読んだ『rent の日記』はカタカナだらけ。読みにくいことこの上ない。韓国語ならハングルの中に溶け込むし、中国語なら漢字に同化させる。しかし、日本語においては、硬く屹立して奇妙な人工の趣がある。英文学とはカタカナ文学なのだとしみじみ思った。いや、何も悪いと言っているのではない、唯、まさしくそんなものであって、逆に、それはそれで異国の情緒を醸し出しているのかもしれない。また、日本語表記の限界であるかもしれない。

大橋教授に限らず、文化人は映画に通ずるだけでなく、映画をアカデミズムの俎上に載せ、まことしやかに論ずるのも日本の「風俗」なのだろう。こういう世界で「たかが映画」などと言えば、私が実際に日本で殴られたときのように袋叩きに会うであろう。実は、私も映画は好きである。映画クラブに属していたこともあるし、少年のたわいない夢で映画を作る人(つまり監督、その頃はまだプロデューサーのほうが偉いことは知らなかった―別の意味で監督は監督として偉いことは偉いのだから、監督さん怒らないでね)になりたいと思ったこともある。文学に音と映像を加味した総合芸術としての映画は、けっして低級なものでないことぐらいは理解している。だから、文学として既に存在する作品を映画化したものと―つまり、その文学作品の一つの解釈としての映画と―比較する学びや研究も意味があることはわかる。

もっとも、近頃の北米の神学部や神学校にも、映画論の講座が結構あることはある。しかし、聖書を扱った映画があったとしても、まさか聖書のテキストの解釈として議論することはない。講義の技巧の一つとして導入に効果的な場面を数分見せることはあっても、まさかまさか教室で全編見せることはなかろう。2時間近くも映画を見せて、肝心の講義の内容は残りの時間でどうするのかと心配してしまう。東大にはそういう施設がないのかどうかは知らないが、この時分、DVDなどの鑑賞個室などはないのだろうか。ないとしても、課題図書と同じで、肝心の講義の日までに学生それぞれが勝手に観てくればいいのではないか。まさか大橋教授はそうではないと思うが、授業の準備が碌にできず、ビデオ等で時間つぶしをして誤魔化す「給料泥棒の教授」は米国にもいる。

ただし、東大では休講を喜ぶ馬鹿学生が昔いたが、米国の学生は、休講があると喜ぶどころか金を返せと怒る「体質」だから、2時間も映画を喜んで観ているかどうかは疑問だ。

ショート・コメント

猫猫先生が、ふざけた議論をする奴には勝てない、と嘆いているところがあった。阪大は阪大でもW氏ではない人のことらしい。ただし、真偽のほどはわからない。しかし、猫猫先生の嘆きは、実は昔から議論上の定説なのである。私自身は、ふざけた議論をする人間とは議論をしない。負けたくないからではない。人生の(時間の)無駄だからである。(また猫猫先生を誉めると、どこかで彼に甘いと言われそうだが、小谷野先生は、口は悪いがふざけた議論はしないようだ。)

昔、グノーシスのある一派の人たちは(いわゆる)正統派の人々と議論して負けそうになると、決まってこう言った。「あなた方は、私たちだけに知らされている(セックスの)奥義を知らない。知らない人にわかってもらうことは不可能です。まず、私たちに与えられた(セックスの)奥義を先に身につけなさい。そうすると、私たちの言っていることが理解できる。」

真善美と無縁な、性器が頭になっている人と議論しても勝てません。