Comments by Dr Marks

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猫猫先生の文藝論―「緋文字」(『聖母のいない国』93-110)への短評あるいは示唆

このブログの本来の使い方(コメント欄のないブログへのコメント)ではないが、由来が由来なのでここに書く。以下のことは、聖書の物語に関するものだから本家のブログのテーマと言えないこともないが、適切な読者を考えればここがいいだろう。忙しいので以下は判じ物的に単語だけ並べる(つもりだったが、少しは文章にする)。小谷野先生ならわかる(だろう)。

今のアメリカの平均的学生に Nathaniel Hawthorne の The Scarlet Letter と言ったところで、100人中いったい何人が読んでいるかおぼつかない。いや、作品名を知っているものさえ数人だろう。そう言えば、Hester Prynne の娘の名 Pearl は70歳以上のご夫人には一般的な名前なのに、近頃はとんと聞かない。

ついでだが、聞かないと言えば、小谷野氏が「西洋でも十八世紀まで[中略]夫婦の間に精神的触れ合いと瑞々しい『愛』が必要だなどという考えは、一般的ではなかったのだ。」(100)というのはあまり聞いたことのない言い方だ。恋愛と愛欲の専門家が言うことだから、何か根拠があるのだろうから聞いてみたいものだ。もっとも、18世紀までとは中世のどこから数えてだとか、愛の定義をこうすればとか、そんな言い訳的なものではなく、もっと素朴な根拠だ。

(ブログ風に:人類始まって以来、仲のいい場合に限るが、大方の夫婦は何で繋がっていたのかねー。結局、愛じゃないの、とDr. Marks。単純な奴だ、と猫猫先生。じゃ先生はナンで結婚したの、とDr. Marks。Mixi に入ってない奴には教えられん、と猫猫先生。以下、続く。)

文藝には不調法な素人で、私が多少なりとも言えるのは、聖書物語との関連だけである。イスラエルの町サレム(「平和」という意味、エルサレムのサレムも同じ)に起源をもつマサチューセッツ州Salem市は、アメリカ宗教史上も重要な町だが、それも専門ではないので今回はよそう。

門外漢とは悲しいもので、アメリカ文藝史の基本図書も知らないから、早速 Wikipedia (英日)に相談することにした。しかし、私の探しているものがない! 誰か何か言っていないのだろうか。えっ、本当?!
(日本語版は書きかけのようだが、英語版の盗作だね。駄目だよ、君たち、Kasuga さんとかだけど。でも、「英語版より」とちゃんと書いているのは偉いが、自分の文章にしたほうがもっと偉いのだよ。自分が書けなかったら、書ける人に書かせるべきだと思う。しかし、翻訳も才能だし啓蒙の意味もあるから、まあいいか、Kasuga さん。俺って、いつでも最後は甘いんだ。)

Wikipedia のごときは、網羅的なものではないから、たまたま出ていないのであろう。しかし、小谷野氏の評論にも出ていない。そうか、ここは『緋文字』の舞台となった17世紀のセイラムの町でもないし、この小説のリテラシーが高かった(と思われる)19世紀のアメリカでもない。英語版 Wikipedia の執筆者も編集者も英語圏の人々と思われるが、何を勘違いして「アダムとイヴ」など持ち出すのか。多分、罰当たりで無教養の D. H. Lawrence あたりの影響であろう。小谷野氏もそのことには触れておられる(98)。

まあ文藝だからねー。これが神学生の、あるいは聖書学を受講している学生の、アダムとイヴの narrative との関連などとやらかした日にゃー(←書けても兄のようにかっこよく発音できません)零点とは言わないが、間違いなく落第点だよ。アダムとイヴの罪は、神と人間との関係であって、人と人との関係ではない。もちろん、人と人との関係は神との関係の中で論じられなければならないが。「神と人」との関係と「人と人」との関係を混同してはいけない。

17世紀のこの物語を読んだ19世紀中頃のアメリカ人なら―この史的状況については、小谷野氏も的確に述べられた(97)―次の配役は容易に類推できたはずである。

Hester Prynne→バト・シェバ; Arthur Dimmensdale→ダビデ王; Roger Chillingworth→ウリヤ (番外: Pearl→ソロモン)
サムエル記下12−13章を読んでいただければ、なぜかということもわかると思うので、余計な解説はしない。

なお、この物語はダビデ王に対する預言者ナタンの叱責によって事の善悪が表明されるとはいっても、大きな聖書物語の中では、神によって誰も指弾されることはないのである。この場合、神の復讐などというのもはなはだ浅薄な神観である。同様なことは、『緋文字』の登場人物にも当てはまることであり、19世紀の読者たちはやさしい眼差しで見ていたはずである。

蛇足だが、バト・シェバとダビデ王との子とはソロモン王のことである。マタイ伝1章6節には「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」とあり、この不倫の子ソロモンは、神の子イエス・キリストの家系に繋がるのである。勇将ウリアという寝取られ男の名も、ここにおいては礼をもって記されていることを忘れてはならない。

(再び、ブログ調:それにしても Pearl ちゃんて、今頃どこへ行っちゃんたんだろー。お年寄りばかり。若い子で Pearl がいたらオセーテ。)

文献発見! というほど大袈裟なものではないが、ともかく私の言っていることが荒唐無稽でない証拠。Karin Jacobson 博士が、Cliffs Comolete というハウツー物のシリーズの1冊 Nathaniel Hawthorne's The Scarlet Letter (New York: Hungry Minds, 2001)p.105 に書いている。ただし、まさに示唆しただけで、私のような配役分析はない。ジェイコッブスン博士以外にももちろんいるだろうが、私の興味はここまでだ。

追記:ジェイコブスン博士の略歴は次のとおりだが、『緋文字』の研究者ということではないだろう。なお、私の示唆が専門家からも出ているということは、単に私の言うことが「荒唐無稽」ではないということを示しているだけであり、文献の存在自体が議論を証明する根拠にはなりえない。その文献の中身を吟味し私の説とすり合わせてはじめて根拠らしいものが生まれる。しかるに、ジェイコブスン博士は示唆しただけで議論はない。私も議論するほどの興味も時間もない。聖書学者としての私のこの示唆を、関心のある人は検討してみればいい。門外漢である私がもしこの問題に寄与したのであれば、それは私の喜びであって誰かを傷つける意図のものではない。Karin Jacobson received her Ph.D. in English from Ohio State University and is currently an Assistant Professor of English and Composition at the University of Minnesota-Duluth.