Comments by Dr Marks

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双風舎企画の「斎藤環と茂木健一郎のクオリアに関する公開討論」のその後に関するコメント

この場合はコメントというより皆さんへの質問になる。一体、斎藤環からの第1信茂木健一郎は何か返答しているのだろうか。教えてほしい。

まさに日記さぼりん(←あんとに庵風)で、人のブログにコメントする暇はあってもなかなか二つのブログを運営していくのは、(多忙なふりをして言えば)骨が折れる。しかし、ふと何かの検索で茂木健一郎の「詩的」なブログに行き着き、この討論を思い出したのでここにコメントすることにした。

「詩的」ブログを体験して頭がクラクラした後、双風舎のブログを再訪したところ、10月末になっても新しいブックマークが付いているではないか。第1信は6月であり、双風舎の説明では月1信の予定だったはず。まもなく11月だぞ。直にクリスマスで、ハッピーニューイヤーだ。人の命などはかない。どちらかが死んだり、読者が死なないうちに何か答えなくていいのだろうか。はて、斎藤環のたったあれだけの疑問に対して、茂木健一郎は大論文でも用意しているのだろうか。彼は自分のブログでも斎藤環との公開討論を宣伝していたのだから、ルールも承知のはずだろうに。(もっとも、囲碁将棋の対局でもあるまいし、持ち時間などと言ってはいけないか。)

私のこの公開討論への興味は、私自身が今夏の『学士会会報』(865号)というマイナー雑誌(部数は結構頼もしいらしいが)に載った茂木博士のあきれた講演記録を批判したことに端を発する。しばらく誰からも反論が来なかったが、数日後とうとう来たので更に私の真意を説明できてコメントをくださった方には感謝している。そして、コメントをくださった方の1人がこの公開討論を教えてくださり、私もブログで宣伝した。しかし、どうやら討論は進展していないらしい。双風舎から茂木博士に催促はして‥‥いないだろうな。

茂木博士批判の中で私は「擬似科学」という言葉を使った。しかし、私は最近ある東大教授との往復書簡の中ででふと「擬似哲学」とか「擬似神学」という言葉を使ってしまった。いや、その東大教授がそうだというわけではない。この先生は、私ごとき者の疑問に対しても即座にご返信くださるような立派な方で、人間としても学者としても尊敬してしまった。たまたま、この先生への2信目で、ふとこれらの言葉が浮かんだというに過ぎない。まあ、茂木博士的「詩的」発想から出た思いつきの言葉だ。しかし、実際、日本の学界の方々の今流行の著作には擬似哲学(時には擬似神学)が蔓延している印象を受ける。日本語の著作に再び親しみだしたのはここ数箇月のことで、目にしたものも限られた数にすぎないが、同時に彼らのブログにもアクセスしているので、私の勘違いではないように思う。(茂木博士の哲学はどうかって? 私のブログを読んでください。擬似哲学にもなっていません。)