田川建三先生の優しさに関するショートコメント
本家に日本で読んだなつかしい『宗教とは何か』を再読した記事を書いた。まじめに書いた。ここには不真面目というわけではないが、猫猫先生的に、この本に登場する人について若干述べるほか、少し補足することがある。本家で記事の続きを書くなどと言ったが、いつになるかはわからないから、この記事でごまかしておく。第一、彼の本には『宗教とは何か』と学位論文ぐらいしか今のところアクセスできないのだ。
その前に断らなければならないことがある。私が参照している本は大和書房の旧版で今は改訂版があるらしい。これからは、田川先生の本も買おうと思っている。図書館で読むほかに何冊か日本で買ったのだが、みんな誰かに上げてきてしまった。彼のホームページにある新刊案内はすでに前の記事で紹介したが、今この記事を書くにあたって検索していたら、来たる11月1日に北星学園で「2007年度宗教改革記念講演会・ウィリアム・ティンダル−聖書を翻訳して殺された学者の話−」という講演をするらしい。田川先生が精魂込めて訳と注を付けたDavid Daniellの著作からの話になるのだろう。(北星の三上先生、講演料ははずんでくださいよ。どうせ自著の宣伝だからなどとけちなことは言わず、田川先生には身銭を切ってでもたくさん上げてください。あなたは西洋古典の後輩なんだから、先輩には礼を尽くしなさい。待てよ、『宗教とは何か』には学部の宗教学しか学歴欄になかったが、田川先生は西洋古典には行かなかったのだろうか。えーとそれから、田川先生の注釈があるとはいっても8400円だからね。翻訳書は高い。原書は10ドルくらいで買えるのに。)
『宗教とは何か』(旧版)には4人の神学者と1人の評論家、そして1人のカトリック作家が出てくる。喧嘩好きの田川建三というのは大間違いで、この6人を批判してはいるが、常に言葉の中に温かみを忘れてはいない。優しい人だと思った。それでもともかく批判は批判だが、もっとも簡単に済んでしまっているのが佐竹明。これは田川のパウロ理解との相違だから仕方がない。もっともしつこく書かれたのが荒井献。彼の新版の『イエスとその時代』をたまたま持っていたので見てみたら、田川の指摘どおりに直っていた。ゲルト・タイセンとの関係も田川のとおりだろうと思った。「文学社会学」などというのは方法論でも何でもない。ついでながら、本家で私が荒井の学位論文について書いたように、単なる優等生のお勉強しましたという論文で、面白いものではない(←今の立場で読んだ私の感想で、当時としての意義はよくわからない)。田川は最後に、荒井については今後一切批評しないと宣言する。なんだか私が二度と内田樹にはコメントしないと同じで、批評の価値なしということか。八木誠一についてもは観念的で表層的であることが指摘される。なにしろ「根源的規定」だから、私に言わせると日本のグノーシス。以上はプロテスタントの学者であるが、もう1人はカトリックの角田信三郎。気の毒に荒井を信じてしまったと書いているが、田川は角田先生を誠実な学者であると評している。私もそう思う。角田先生は、近頃はカトリック系ブログの世界で「彦左衛門」のHNでご活躍の由。評論家とは吉本隆明。素人なりのするどい見方は評価するが、素人の限界を指摘。最後のカトリック作家とは遠藤周作。実は彼についての批判が一番長い。聖書学の立場から、影響力の大きい遠藤周作の本の誤りに危機感を抱いたことによるのであろう。しかし、人間としての遠藤のさりげない温かみと親切に、田川は心から感謝を述べている。
田川がせっかくドイツに居場所を得たのにアフリカに行くことになった次第も書いてある。いろいろな事情があったのであろうが、1970年当時のドイツのプロテスタントの学界事情がよくなかったように思う。この頃からは、方法論的に行き詰まっていたドイツのプロテスタントの神学が小粒になりだし(それこそタイセンが有名になりだした頃ではあるが)、以後は第二ヴティカンを経たカトリック学者や英米の学者の活躍によって新たな局面を迎えるのだが、田川は最もつまらない時期につまらない場所に滞在したことになる。惜しい。そういえば、昨年夏から日本の神学生や若い神学者のブログを訪問し、彼らがあの一番悪いドイツプロテスタントの研究段階で留まっていたり、あるいはあの段階までの講義で終わってその先のことを知っていないのに驚いたことがある。田川の本書で言えば、佐竹のパウロ理解などもその悪い例であろう。
おまけ:猫猫先生で始まったこのブログだが、最近の小谷野先生のブログの口調は、噂とは別で(田川先生のように)実際は温かみがあり優しいのに気づいた。