Comments by Dr Marks

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何っ、「終油」の聖書的根拠だって?―あるトラックバックさんとその読者の会話

そろそろコメントも下火だと思っていたら、何かトラックバックの裏口で私の名前が出ていた。そのトラックバックのブログ主とそのブクマさんが会話しているのだ。私の前日の記事「生き抜く尊厳」は「終油(extreme unction)」と直接の関係はないのだが、確かに無関係というわけではない。終油はカトリックにおいては七つのサクラメント(Sacrament、日本語訳では教派により聖礼典、秘跡、聖奠、機密などあるが、いずれも同じ意味)の一つである。しかし、一般のプロテスタント諸教派は聖餐式と洗礼式のみをサクラメントとするので、終油は含まれない。

近頃のアメリカの神学大学院では、教派立で教派の聖職者しか養成しないというケチな大学院でないかぎり、サクラメントについて講義する場合は歴史的に辿らざるをえないので、まず御言葉(聖書)とサクラメントの聴覚的視覚的対比から始まって、サクラメントが極めて教会制度や教会生活なしにはありえないことを学び、更にトリエント公会議宗教改革の精神の学びにいたるに違いない。少なくともアメリカの聖職者は、プロテスタントであっても(式次第のこまかな手続きを除けば)終油のサクラメントについても(ちゃんと勉強した者なら)多少は知っているはずだ。

現行ローマ・カトリックのカテキズムでは1512番に解説がある。神学というのは哲学と同じで飴玉をしゃぶるように全体からからめていかなければならない。従って、この1512番も全体としてどこに位置するかを見極めることも大事である。そもそも終油は、直接的には病者への快復を祈る塗油に源を発し、更に遡れば古代からの患部への塗油の習慣にまで行き着くであろう。(聖書の該当箇所は、マルコ伝6:13、ヤコブの手紙5:14−15)

それゆえ、カテキズム1512番は病める者の癒しのコンテクストの中に納められている。しかるに終油は「終」であり「末期(まつご、extreme)」であるゆえんは何か。その答として、ユダヤの民ほか地中海地方の諸民族に見られる死者への塗油あるいは葬送の香油を連想することも可能であろう。(マルコ伝14:8およびマタイ伝26章、ヨハネ伝12章)

さて、そうであれば、終油は快癒のためではなく葬送の準備であろうか。否、トリエント公会議での解釈を元に、カテキズム1512番も明瞭に葬送の準備であることを否定している。あくまでも終油は病の癒しを願う「究極」の祈りの儀式にすぎない。死ぬためではなく、ここにおいても生きるための塗油である。かくして、「終油」はトラックバックさんが予想したように「生き抜く尊厳」と巡り巡って繋がることになる。(終油をミスした信者さんも天国は行けるから、ご遺族の方、心配しなくていいよ。本来、天国への前売り券が終油ではないからね。安心おし。)

我々は、祈る際に、神の御旨に沿う祈りとしたいがために、しばしば「御心ならば何々してください」と祈るが、病者に対する祈りにおいては決して「御心ならば癒してください」と祈ってはならない。病者は常に快癒を望んでいる。終油を施す者が、死の使いのごとく祈ってはならないのである。

もちろん、救いは病気の快癒だけではない。また、人間の肉体の命には限りがある。神様が肉体を癒し地上に再び戻してくださることもあるだろうが、「もうよい、私の許で休みなさい」と天国に連れて行ってくださる場合もあるのである。すなわち、神の究極の救いには、安らかに天に帰してくださることも含まれるのは当然だ。

神様は、熱心な祈りに応えて、最も良いことを病者に与えてくださる。それが、速やかな快復なのか、速やかな死なのかはわからない。ただ、人間は、早くこの病者を死なせてくださいと祈ってはならない、というのが(プロテスタントの人間が言うのもおかしいが)カトリックの教えなのではないだろうか。なお、終油には可能なら告解(confession、告白)と聖餐が伴うべきだ。最後の聖餐は「旅路の糧(かて)」(viaticum)と言われる。(このことは、第二ヴァチカン時にオランダ語で出された『新カテキズム』にも書いてある。英語訳は A New Catechism: Catholic Faith for Adults。図書館にありますか?)

おーい、栗原裕一郎さーん、私は要領がいいだろう。今、一つ記事を書いたが明日の日付だ。今日じゃなくて明日だから、明日何かあったらブログをさぼれるんだよ。この要領の良さを見習いなさい。(でも、明日も何か書いてしまうな、きっと。Finalventさんの嘘っこサバトみたいなもんだ。後ろから細君に、やること先にやったの、と叱咤激励されてるんだ、こっちも。)

あっ、トラックバックさん、神学は全体的なものという視座はとても大事なことなのでそれでいいと思います。しかし、出発点はどこかに置く必要があるわけで、それを聖書に置くというのも大賛成です。最後に、もう一度聖書に戻ったときに、何だこの「聖書」のぼんくらめ、「聖書」なんてクソくらい(失礼!)となったとしても、スタートは聖書ですね。お元気で!