Comments by Dr Marks

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終油の補足:「旅路の糧(かて)」Viaticum 余話

ラテン語のヴィアーティクム(viaticum)を辞書で引くと「旅路の糧」だが、糧は食べ物とは限らない。むしろ路銀のことである。旅行代のことだ。仏教や古代ギリシアの来世観では三途の川やアケロン川(Acheron)の渡し賃であるが、キリスト教には関係がない。終油に伴う最後の聖餐でホスティアを口にしたとしても、それはアケロン川を渡らせるために死者の口に入れてやるコインのことではない。形が似ているからといって、そのように解釈するのはまったくの誤解である。

ラテン語のヴィアーティクス(viaticus)を辞書で引くと「送別の食事」となっている。こちらは完全に食べ物だ。ただ、日本的な水杯(みずさかずき)ではなく、正式な食事(正餐、ケイナ、cena)である。「西の方、陽関を出れば故人(死者ではなく知人の意)なからん…さらに尽くせ一杯の酒♪」と王維が設けた宴席のようなレベルのものだ。

いずれの言葉も「道」(ヴィア、via)が付いている。道といえば、使徒行伝の9章2節にもこの「道」があり、ラテン語訳聖書では、まさに via が使われている。使徒行伝でのこの「道」とは何か。そう、パウロがこの道に属する男も女も片っ端から捕らえようとした「道」すなわち後の「キリスト教」である。従って、キリスト教徒が、この道を歩む、という場合はキリストの信仰を全うするということである。英語では通常、大文字で表記し、定冠詞を付けて the Way と書く。

私は故あって父の旅立ちにあっていない。私からヴィアーティクムもヴィアーティクスも持たせることはできなかった。意識の朦朧とした父は、私にはもう一人息子がいたはずだが、と言ったそうだ。そのことは、後で兄から聞いた。……、しかし、何、嘆くことはない。同じ道を辿ればいずれ会える。