No. 21.
コメントにならないコメント−36 (ヴァメーシュの『イエスの復活』「イエスの復活に関する説明を吟味するための予審」)
ソロモンの知恵 Raphael Sanzio (1483-1520)
本審判に入る前に予審というのがあるが、ユダヤ教の裁判でもそうなのか確かめたことがなかった。そういえば三浦和義の審問が8月15日に延期になっているが、ネットで見た限り、朝日、毎日、讀賣の3紙の報道が微妙に違う(というかまったく違うのだが)。
朝日は弁護団のせい、毎日は検察側のせい。どちらも違う。この場合、讀賣に最高点を上げる。最初は弁護団のせいなのだ。弁護団が日本側記録の英訳に手間取った。次に、それを受け取った検察側が正確なものであるかも含めて検討するわけだが、それが済んでいない。しかし、元はといえば、弁護団が遅れたのであり、弁護団が文句を言う筋ではない。現に、検察側だけではなく、判事も読み出したばかりで時間が必要だったのだ。その辺りまで正しく報じたのは讀賣でした。
さて、ヴァメーシュじいさんは、今まで見てきた四福音書のイエスの復活に関する説明に対して本格的な審判に入る前に、今まで読んだことを(三浦事件の判事も今読んでるわけだ)整理する。そして、この章の末尾には、我々聖書学者というよりは聖書を学ぶものなら誰でも目にする四福音書の内容比較表を掲載する。ただし、マルコ伝の短い終結部をマルコ伝A、長い終結部をマルコ伝Bとし、5つのコラムの表となっている。
この表をPDFで複製してネットに載せるのはさすがに不法だと思う。また、こんな表は自分で作ったほうがいい。縦に5つに割って、自分の注意したい項目を横に切って、内容を書き込んでいけばいい。また、今までの四福音書のポイントを再びこの章で繰り返しているが、冗長なので省略する。代わりに、幾つかの重要な論争のポイントを箇条書きにして、ヴァメーシュの次の検討目標である、使徒行伝に橋渡しすることにしよう。
シュトラウスの言を待つまでもなく、稀なることを証明するにしては、聖書というものは極めてボンクラ頭が書いたに違いないと思わせる。杜撰も杜撰、支離滅裂、論旨不明、曖昧模糊、三流法律家の法廷弁論のようなものだ。このことは、ユダヤの法廷に詳しいものからしても(私ではない)不思議なようだ。歴史的に比較的優秀な頭脳が、本当にこんなことを信じていたのだろうか。
A) 墓に行った女の名前が少しも一貫しない。ヨハネ伝では、たった一人のマグダラのマリアであったが、その他は二人だったり(マルコ伝B)、三人だった、その他大勢の女だったりするが、そのつど女たちの名前が違う。ただ1つ一貫しているのは、常にマグダラのマリアがいることだ。しかし、ユダヤの律法や古代法においては、女はいくら束になったところで、証人である資格はない。女がいくら空の墓を見たと言っても、イエスの足にすがったと言っても役には立たないはずだった。
B) 墓場で女たちに目撃された人の数もまちまちだ。そもそも人間なのか天使なのかわからない者もいた。(輝くような衣だったり白い衣であることは共通する。)ヨハネ伝では二人の天使が出るが、マグダラのマリアに何も要求しない。ルカ伝では二人の男で、女たちにキリストの復活の預言を思い起こさせようとした。マタイ伝やマルコ伝Aでは、一人の天使(マタイ伝)または若者(マルコ伝A)が、イエスの復活とガリラヤでの再会を伝えるように女たちに命ずる。しかし、マルコ伝Aは女たちが言いつけを守らなかったし、マルコ伝Bにおいてさえガリラヤ行が実行されたのかどうかわからない。
C) 復活のイエスが何度出現したのか、何処に何時出たのかも、福音書それぞれがまちまちである。マルコ伝Aでは出現さえしていない。ヨハネ伝では弟子たちに出現する前にマグダラのマリアと会ったりしている。マタイ伝では女たちが弟子たちのところに向かう途中で会う。ルカ伝では、二人の弟子にエマオで会い、何時なのか不明ながらペテロ一人にエルサレムで出現した。マルコ伝Bでは、エルサレムのマグダラのマリアと弟子たちに、また都を離れて旅路の途中の二人の弟子にも会う。出現場所は、ルカ伝とマルコ伝Bではエルサレムまたは都からの旅路に集中する。ヨハネ伝ではエルサレムの隠れ家であり、追加された21章ではティべリア湖(=ガリラヤ湖)での邂逅を補足している。しかし、マタイ伝ではそのガリラヤ地方の山になっている。初めに述べたルカ伝は、ガリラヤでの出現も出現の予知も一切記録していない。
D) ヨハネ伝、ルカ伝、マルコ伝Bによると、イエスは使徒の使命を弟子たちにエルサレムで託すが、マタイ伝によるとガリラヤでの話となる。マルコ伝Aでは、まったく出現はないことになるが、墓にいた若者の言葉に従っていたら、ガリラヤでそれは起こったことになろう。
E) イエスの昇天は、マルコ伝Bまたヨハネ伝によるとエルサレムで起こった。ルカ伝ではベタニア村であるが、これは、これから検討する使徒行伝の記事にあるオリーブ山の付近でもある。ただし、この出来事の日時は異なっている。マルコ伝Bでは、復活の日(イースターの日)であり、使徒行伝では40日後である。ルカ伝では、復活の日にベタニア村に連れて行ってすぐにとなっているが、その前の記述では、「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と言ったのであるから、使徒行伝のように何らかの時間的経過があったのかもしれない。(ここで、ヴァメーシュはヨハネ伝の昇天について明白な勘違いの文章を挿入しているので注意。耄碌かなあ?)
さて、女が証人にはなりえないと言ったが、それは特別な社会の決まりであって、普通の理性の人間にとっては、女であろうが男であろうが、証人は証人であったと思うのが自然だ。つまり、法廷で証人に立てなくても、実際、ソロモンは女たちの言い分を聞いている(列王記上3章)。また、先に紹介したボーカム先生やスェーデンのルンド大学にいたガーハードソン(Birger Gerhardsson)などは、女ゆえに証言の信憑性が高いと主張する。つまり、当時の証人としての無効性を考慮したうえでも、女を証人として立てざるをえなかったほど、真実であったというわけだ。
しかし、残念ながら、その証言には、マグダラのマリアが常にトップに挙げられていること以外に何の一貫性もない。また、すべての福音書には、墓が空であったと書かれているが、空すなわち復活を意味するわけではなかろう。
ヴァメーシュがここで述べていることで面白いことがある。ラザロは復活後に、目障りだということで命を狙われたが、イエスにはそんな話はない、と書いていることだ。しかし、イエスに生き返らされたというラザロと、自分で、あるいは神に生き返らされたというイエスでは、ユダヤ人たちの対応も別なわけで、ヴァメーシュの言っていることは、あまり意味がないかもしれない。
いずれにしろ、ヴァメーシュの結論はまだ先である。次に、使徒行伝の記事の検討に入る。